「セオリー」とは何か?
長年の歴史から導かれた経験則は、ある意味で人間の本質を巧みに汲み取って生まれる。
セオリーもまた同様に、「こうしておけば失敗しないだろう」という手段だったに違いない。
しかし、かつての「プロフェッショナル」が評価されない背景が見え始め、それが環境や状況の変化に理由があると考える。
つまり、足がめちゃくちゃ早く、走って荷物を届ける能力も、車が誕生すればその評価は以前とは異なるだろう。
そうやって時代は移ろい、新しい技術によって塗り替えられて来た。
問題は、そんな新しい技術、正常進化が通用しないケースが増えた。
どういうことかというと、車が誕生した初期、時速100キロを超えてその進化にみんなが喜んだ。
それが150キロ、200キロと増すことが進化だった。
しかしながら、その速度が1000キロなってしまうと、そもそも人間では扱いきれない存在になってしまう。
人間の感覚がその技術を使いこなせないからだ。
一方で正常進化をさらに進めるなら、1000キロだけでなく10000キロでも使いこなせるパイロット探すだろう。
それがつまりAIになる。
一方で人間はもう正常進化から取り残されてしまう。
今後、人はどこに向かうのか?
プロフェッショナルであることよりも、別の評価が求められるのは、昨今のYouTube でも感じないだろうか。
結論的なことを言えば、巧みな技術よりも、「欲」に関連させたコンテンツが評価されやすい。
ビジネスモデルでも、その傾向が強いと感じる。
つまり、上手く活用することでメリットを感じるタイプでは、思うように反響を得られない。
もっとドタバタした分かりやすさが求められる。
しかし、その傾向を過剰に汲み取れば、社会の進化は完全に二極化し、AIによる進化と停滞する人間になるだろう。
今後、例えばジョブ型労働に人間が慣れてしまうと、もう自己プロデュースできない人は断片的な知識ばかりが増えてしまう。
ロジック的な魅力に反応出来ず、どうしても分かりやすさばかりに目を奪われる。
「安い」「早い」「そこそこ」というワードに慣れてしまうと、そこから抜け出せないだろう。
今は過渡期だから、ある人には「なぜ成果が出ないのか?」と感じることが増える。
理由は簡単で、ある意味それだけ社会全体の二極化が進んでしまったのだろう。
考えてみれば、コロナ禍で人間は生き方を変えた。
価値観や労働に対する意識も同様だろう。
もしも、年金のように月に一定の金額が無条件で振り込まれる制度が誕生し、代わりに国の運命をAIに委ねることになったら、どれだけの人が不安を感じるだろうか。
言い換えれば、そんな流れが表に出ることがまかり通れば、たとえ反対派がいたとしても、ジワジワと社会に二極化が浸透するだろう。