なぜ「科学」は「意識」を理解できなかったのかを掘り下げてみよう!

「 正解」を求め続ける「科学」の使命

自然界で起こる様々な事柄には、「一定のルールがある」というのが科学の誕生ではなかっただろうか。

昨日、「死後の世界」について、素粒子という立場から考えた時に、様々なことが仮説できた。

一方で、長く「科学」は「意識」を理解できず、その解釈に限界を感じて来た。

例えば、目の前にコップがあって、その重さが100gだったとしよう。

偶発的なことが起こり、そのコップが破壊されてしまった。

もう「コップ」とは呼べないくらいにバラバラになってしまった。

しかしながら、「コップ」だった材料を集めて重さを測定すると、目盛りは「100」を指している。

形変化しても、その重さは本当に変化しなかったのだろうか。

ここに幾つかの疑問が残る。

集めたカケラは全てだったのか。そしてはかりの計測はどこまで精密だったのかということだ。

同じことを人間で考えた時に、生きている時と亡くなってしまった時で、重さに変化はあるのだろうか。

仮にあったとして、その誤差はどこから導かれたのだろうか。

科学が100%の再現性を求めるなら、生前生後でどう重さが変わるのかを厳密に説明することは難しい。

なぜなら、例えば地球上の重力だって一定ではないのだから、1ミリでも動かせば、また時間が変化すれば、厳密で精密に重さを知りたい時には「誤差」となるからだ。

さらに重要なのは、「機能」という面で、「コップ」は形を整えているからこそそこに液体を入れられる。

それが破壊されることで、本来の機能を果たすことができない。

つまり、人が亡くなった時に重さに変化が見られないとしても、「機能」面でも変化がないとは言い切れないだろう。

つまり、「意識には重さがない」と結論づけることは、それだけでは判別できない。

もう一つ思ったのが、「思い込み」や「誤解」という概念である。

本来なら、「思い込み」や「誤解」には、一方的な見解ではあっても、相互に納得できる見解ではなかった。

その意味では、科学という立場では、採用され難い条件でもある。

つまり、「なぜそれをしたのか?」という「意識」がそこから生まれるのかを考えた時に、科学という立場からはそこに一定のルールを探そうとする。

しかしながら、「意識」が思い込みや誤解のような集合体でできていたら、そこに一定のルールも存在しないだろう。

「なぜ好きになったのか?」

という恋した理由を聞かれて、「〇〇だった」と答えたとしても、別の人には「だったら〇〇の方が良かったのでは?」とより求めている好条件の事例があることを知っている。

でも、当人にはそうは思わないし、時間が経過して段々とその事情を理解したりする。

つまり、瞬時に正確を導ける科学と、我々の思考は同じではない。

だから科学にとって人間の「意識」がとても理解困難に思えるのではないか。

そんな風に考えると、科学が長く「意識」に関して理解できないことも何だか頷けたりはしないだろうか。


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