「死後の世界」ってあるのだろうかと思ったので深掘りしてみよう!

 「死は存在しない」と考える人もいる!?

最先端量子科学の研究者である田坂広志さんによると、ゼロ・ポイント・フィールド仮説によって、これまで科学では説明が難しいとされる「意識」について面白い見解をされています。

今まで生きていた生き物が息を引き取り、外見的に「死」を迎えた時に、生前生後で何が変化するのでしょうか。

少なくとも、生きていないのだから意識を感じることができません。

見解によっては、意識も失せてしまうと考えることもできるでしょう。

面白いのは、田坂さんの場合、肉体は意識から切り離されたとしても、意識そのものは残り続けると仮説を立てています。

と言うのも、ゼロ・ポイント・フィールド仮説では、この世に存在するもの全てが「波動」だったことに根拠を持ちます。

もしもそうであるなら、これまで謎だった「意識」でさえも波動という流れで説明できるのではないかというのです。

その話を聞いた時に、「興味深い」と感じた部分と以前「意識」は説明しきれていないのではないかとも感じました。

例えば、目の前に色も形も異なる石が100個あって、それは意図しない自由な形で点在しています。

全ての石が相互に関係を築きながら、しかし一方でグループのようなまとまりとしても意識されています。

つまりこの「グループ」という考え方が「意識」を含む全てのモノの正体で、あるグループを「こみち」と呼ぶ人がいるのです。

例えばグループの一つである「こみち」が死を迎えることで、少なからず「こみち」という石の集団も変化を起こし、先ず「意識」が失われるでしょう。

しかし、失われると言っても、消滅するのではなく「グループ」から外れるという感じで、場合によっては別のグループに組み込まれることもあるのです。

つまり、「前世の記憶」とは、グループを変えることで起こる前のグループでの記憶に他なりません。

ポイントは「意識」というものをもっと小さなグループとして考えた時に、生前生後で切り離された時に「意識」というグループも変化しないのかということです。

ここからはこみちの想像ですが、Aさんの意識とBさんの意識を持つ要素が組み合わさって「こみち」になることもあって、こみちからさらに別の意識が組み合わさり、場合によってはAさんBさんのどちらかが抜けてしまうことも起こり得るのではないでしょうか。

そのような場合、前世の記憶はある時代での記憶ばかりではなく、性別や時代を複数持つことだってあるでしょう。

より多くの融合体であれば、他人の気持ちさえ理解できるでしょうし、一つしか無い意識から生まれれば、他人を理解することが不得手かもしれません。

つまり、個人的な見解としては、死後のなるとそれまでの「意識」も生前のような強い拘束力を失って、瞬間的な結びつきによって時に全く異なって見える性質の意識へと変化します。

要素としては微かな記憶として残っていたとしても、それを思い出し時代や習慣として再現するほどではありません。

つまり、「危なそう」とか「熱そう」という意識は学習によっても明確になりますが、始める前から怖がってしまう理由をその「意識」に残された微かな記憶によって引き起こされていると解釈します。

例えば血液型占いのような血液型による性格診断も、その血液型として生まれる中で、把握できるか否かを問わず「意識」としてその特徴も満たしているとなります。

「几帳面」という特徴を持つからこそ、結果として「A型」と言われるみたいなことです。

田坂さんと一番見解が異なっていたのは、生物としての「意識」の数は未知数で、こみちとしてはそれこそ「机」になった意識と窓になった意識がバラバラになって、死を迎えた意識も同じくバラバラで、場合によっては一個や二個、もっとたくさんに分裂し、グループとして認識されることで、生まれ変わりが起こると思うのです。

つまり、死後も「意識」を構成した「石」はなくなりません。

しかし、バラバラになってグループが分裂した時に、もう意識として再現不可能になってしまうでしょう。

死という現象は「バラバラ」になるきっかけであり、しかしながら「意識」もバラバラになって再構成されますが、消えて無くなる訳ではありません。

死後の世界とは、冒頭で触れた石が点在している状況そのままで、まだグループとして認識されていない段階です。

そのように考えると、シンクロニシティのような現象さえも、そう解釈が難しくありません。

ある意味で、グループとしても認識されない状況は、義務や責任も、食欲さえ無いので、自由気ままで、天国とも呼べるでしょう。

ちょっとそんなことを考えるきっかけになりました。


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