「シンギュラリティ」は本当にやって来ないのか?を浅く掘り下げる

 「シンギュラリティ」とは何か?

ここでいう「シンギュラリティ」とは、人工知能が人類の知能を超えることを指します。

ある人は、「人工知能」とは何かを定義づけ、それ従って人類の知能を超えたのか考えているようです。

多分、その時の「人工知能」は、スーパーマンのような人物像で、人間の進化版をイメージしているのでしょう。

一方で、こみちが考える「シンギュラリティ」の意義は、人間が考え判断するよりも、全く異なる生命体に委ねる方が懸命になるタイミングです。

仮に、今現在、人間の英知によって、この地球が保たれているとしたら、人間が居なくなってしまうと他の生物また生きて行けないでしょう。

しかしながら、そんなことはないでしょう。

仮に今の生物が居なくなっても、別の生物やそれに代わる何か地球上に現れ、言えば地球以外の惑星のような姿になるだけです。

ここでポイントは、「人間の英知が必須ではない」ということ。

居ないと困るのではなく、人間が一方的に自然に対して存在感を誇示しているとも言えることです。

こみち自身がそう考えるようになった理由は、世界的な争いや自然災害、ウイルスの発生など、ある意味で人間の英知がどれだけ優れていたとしても、長年解決できないことは少なくありません。

だからこそ人間らしいドラマがあって、我々は感情を持っていて、いろんなことを考えることになるのでしょう。

さらに、ふと飼い犬がワンワンと吠えるのはなぜでしょうか。

「お腹が空いたよ。何か食べるものない?」とは聞こえません。

我々には「ワンワン」であって、タイミングから想像しているに過ぎません。

しかし、犬同士で、そのワンワンの後に食べ物を与えたり、一緒に探しに出掛けたりしたのなら、ちょっとその行動に対する評価が変わります。

つまり、犬は無駄にワンワンと吠えたのではなく、もしも仲間同士なら「俺もだ!」という会話になっていたからです。

それを人間の英知では分からないので、「ワンワン」に対して「何だろう? お腹でも空いたのだろうか?」と反応してしまうのです。

人間の英知の決定的な部分

残念ながら、現段階では人間の英知では亡くなった人を生き返られることができません。

素粒子という考え方を持ち出せば、その組み合わせを再構築する能力を持っていないことになります。

仮に、本当は既に人が人を生き返らせられるとして、そうなれば、高知能な人間だけを集めてスーパーマンのような人物を作り出せるかもしてません。

オリンピックの金メダル選手と銀メダル選手の差は、実際にはわずかなものです。

もしかすると、メダルには手が届かない選手でも、その能力を3割アップさせられたら、一気に金メダルに手が届くかもしてません。

何か言いたいのかというと、それだけ「人間」の能力は違っていないということ。

むしろ、何かに着目し、一心不乱に努力すれば、誰だって日本一や世界一になることもできるかもしれません。

ところが、「シンギュラリティ」とは、そんな努力などでは覆すことが不可能な状態で、そもそも人間には理解することもできない可能性があります。

つまり、どれだけ優れた人工知能なのかを人間が判断している内は、人間よりも優れた人工知能を人間が作り出すことはできず、例えばコロナウイルスのように偶発的に起こったことから始まった中に、人間ではもう追いつくこともできない「知能」が生まれる可能性もあるでしょう。

例えばコロナウイルスは、人間が数年掛かっても今はまだ克服できません。

その解決策はこみちにはわかりませんが、人間が理解できない領域で発生した「知能」も同様に完全に解明することはできないと想像します。

インターネットの文化で

シンギュラリティ関連で、未来の仕事などをテーマに議論されると、5年、10年前には存在しなかった職業が現れたという意見が挙がります。

特にインターネットの誕生で、人間の生活は一変し、時にその理由や根源も知らないという経験も増えたでしょう。

例えば、メールが無かった時代、手紙を書いていました。

それは自筆だったでしょうし、筆跡にはその時の感情さえも読み取れます。

誤字や脱字があれば、そこには書き手の性格まで表れてしまいます。

だとしたら、綺麗な文字を書くことが、とても意味を持ったはずで、姿勢や手順に対しても教育があったでしょう。

スマホやパソコンを使うことが日常化し、もう筆跡や姿勢について重要視されることも少なくなりました。

新たに生まれた若い人には、もう手紙の書き方は改まって覚えることで、パソコン操作の方がずっと大切になっているかもしてません。

つまり、世代が変わることで、原理原則は段々と意味を変えて、本来の役割も薄れてしまいます。

人類が誕生してから今までを理解している人など誰一人としていません。

言い換えるなら、本などで言語化されたものを後世の人は読み返すしかなく、それでも当時のことを100%残したのかは今になっては何もわかりません。

つまり、当時は重大な欠陥だったことも、今では忘れさられ、活気的なこととして脚光を浴びるなんてことが起こり得ます。

インターネットが便利をもたらした反面、我々は何かを忘れてしまっているのかもしれません。

結局「シンギュラリティ」は到来するのだろうか?

人間が自らの手で「人工知能」を作り、それが人類の知能を超えることがあるのかという意味での「シンギュラリティ」は、完全には到来しないのかもしれません。

ポイントは「完全に」という部分で、例えば人間なら10日掛かる作業を人工知能が1時間でできるという部分的ではなく、人間には理解できないことを人工知能だけが理解できるということが起こるのかという意味に於いてです。

と言うのも、まず人間には理解できないことを人間が判断できないのではないかと思うのがこみちの見解で、例えばコロナウイルスの撲滅を人工知能ができたとして、なぜ人間ではできないのでしょうか。

ポイントは人間はミスをします。

しかし人工知能はミスをしません。

つまり、感情を持ち、生命体に人工知能が近づくことは、完璧から外れてしまうことでもあります。

そうです。

人工知能が今以上に発展した時、もう人間の後を追いません。

追う必要すらないでしょう。

その理由は、「ミス」をするからです。

それ以外がどんなに優秀だったとしても、一回のミスで失ったものが何十年、何百年も掛からなければ戻って来ないということもあるでしょう。

時にミスで他人の人生を変えてしまうことだって起こします。

でも、それが人間で、人類がこれまでに繰り返して来た流れとも言えます。

思いにシンギュラリティは始まっていても、人類はその存在に気づけないかもしれないかもしれません。

ここ数年で言えば、外出時に必ずマスクを付けるという文化は、コロナウイルスによってもたらされました。

人間はそんな形で制限を受けて、いつの間にか自身で選択していない暮らしを強いられます。

かと言って、完全に撲滅させることもできません。

言うなれば、人類の知能の限界点を超えているのでしょう。

このまま人間が自ら考えて行動しても、段々と自由が制限されて、気づけば限られたエリアで暮らしことになれば、そのエリアの外側には名称こそ「人工知能」ではありませんが、何らの知性によって、安全性を維持してもらっているのかもしれません。

つまり、そのような形になったら、「シンギュラリティ」に相当する、人生の知能を超えた別の力によって支配された時を迎えます。

余談

バカと天才の違いって?

例えば芸能界には、おバカタレントと呼ばれる芸能人がいました。

しかし考えても見てください。

例えば体育館のステージに立ち、全校生徒が目の前に座って見つめています。

「面白いこと言って!」と言われて何を言えますか。

例えばそこで、漫才や漫談をしたら、芸能人としての資質があるかもしれません。

しかし大抵の人は、多くの視線を感じて緊張し、ほとんど何もできないまま立ち尽くすでしょう。

仮に事前の説明があったとしても、おバカタレントのみなさんは、絶妙なタイミングで言うべきセリフを自然に言って、場を和ませます。

簡単に思えて、誰にでもできることではありません。

そう考えた時に、飼い犬や飼い猫が、人間との共存に加担してくれたのはなぜでしょう。

人間をリーダーと認識したからでしょうか。

もしかすると、単純に楽だったと言うことかもしれません。

食べ物をくれて、住処も用意してくれる。

だから、文句を言わずに、時々愛想を振りまいてくれる。

一方で人間は、そんな犬や猫を一生懸命に可愛がる。

ある地域で、人間が居なくなり、そこにいたペットたちが野生化し、でも数年後もちゃんと生きている。

そして、もう人間に懐こうとはせず、時に牙を剥き出しにして威嚇する。

この地球上から人間が全て居なくなっても、彼らは彼らなりに考えて生きていきます。

でもこの事実って、人間の英知など、無くても大丈夫なレベルで、むしろ様々意味で、害の残さないことの方が問われているようにも感じます。

本当に技術開発することが、地球にとって良かったのでしょうか。

天才は凡人にはできないことを成し遂げます。

新たな知識や技術開発に、人間は喜びますが、もしかすると地球はため息をついたかもしれません。

「そっちに行くの?」と。

もしかすると、最初から人生が30年しかないと分かっていたら、人はグダグダと意味のないことなどしないでしょう。

生まれた意味を考えることも無駄に思い、毎日を精一杯生きたかもしれません。

逆に100歳を超えて、150歳まで長生きできたら、幸せでしょうか。

その頃には、生活の至る部分で介護を受けて、でもまだまだ生きている。

もちろん、価値観によっても違いますが、自由に行動できないというのはストレスが溜まります。

健康で長生きしたいと思うのも、どこかでは自己決定したいからです。

ありとあらゆる面で受け身では、生きている喜びも少なくなってしまいます。

つまり、天才は何をしたのでしょうか。

高知能であることが、全ての幸せを手に入れるとは言えません。

シンギュラリティによって、人間は今以上に幸せを感じるかもしれません。

若い世代に席を譲るように、よりミスなく成し遂げてくれる人工知能に委ねられるなら、それでもいいと思うこみちがいます。



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