「全人類総クリエイター時代がやって来た!」を浅く掘り下げる

 日経テレ東大学「後藤達也×けんすう」

〜コンテンツビジネスの未来〜より

最近、人工知能が近々人類の頭脳を上回るのではないかと囁かれています。

人間は素晴らしい反面、とても愚かな部分も持っていて、それが時にミスジャッジを起こします。

一方で、世の中の変化は加速度的に早くなり、動画内での対談でもいつか誰もが追いつけない速度になったら…と話されていました。

その意味では、人工知能が社会規範を管理し、運営する社会が到来し、人間は自身の歩みで生きる急かされる事ない暮らしを手に入れるのでしょう。

しかし、「お金を稼ぐ」という目的があるからこそ、成立したビジネスのノウハウや、パソコンスキルなども、もう必須ではなくなるし、知っていることで得をすることもなくなってしまうでしょう。

資産が100億円あっても、市場で買えるものが管理されたなら、高額な家や車を買ったとしても、その内部には人工知能が存在し、どこまで行っても完全なる自由を得ることができません。

そうだとするなら、もっと自由に楽しく生きることを考えた方がいいと思い、生き方の根底から覆してしまう人だっているでしょう。

現時点で、テレビ番組で放送していた娯楽が、YouTube などに分散されました。

その意味では、YouTube からさらに分散されたことで、そこで活躍されていたYouTuber ほど、以前のような視聴回数が見込めないと感じているでしょう。

高品質で有益なコンテンツであることが正解ではなくなり、視聴者がどんなコンテンツに集まるのか、プロのクリエイターでも分からなくなってしまったのではないでしょうか。

例えば、先日、国内最大の総合格闘技団体「ライジン」がアメリカで2番目にメジャーな「ベラトール」と5対5の決戦を行いました。

しかし結果は5敗となり、格闘技の試合ですが「勝利」を飾ることはできませんでした。

ここで興味深いのは、ライジンを代表して戦った選手たちの評価は一切下がらなかった上に、果敢に挑戦した姿に感動しました。

強くこと、優秀なことが最高の答えではなく、すでに我々はもう「プロセス」に興味を持ち、価値を感じています。

言い換えるなら、茶番劇だとしても、興味を感じられたらそれが一番求められているコンテンツだということ。

以前なら、世に出る前に上司にダメ出しされた内容でも、当たればそれが今の正解ということです。

上昇志向が薄れた世界観

ハードパンチャーと呼ばれる強打が持ち味の選手が、意外と戦績が不安定なのは、コツコツと打ってくる選手にリズムを狂わされてしまうからでしょう。

実力差があると豪快に勝利するのですが、接戦には脆いということです。

つまり、強く打つということばかりで、勝利を上げられないことを学ぶと、選手は細かな技を研究します。

練習では強そうな選手が、実際に試合では実力を発揮できないということって、割と起こり得ます。

だからこそ練習して、同じ技でも精度を高めていくのでしょう。

さらに言えば、「一通りできる」という段階から、「さらに一回り高い質」になるまで、どうしても年月が掛かりますし、それだけに専念しなければ到達できません。

つまりそれこそが上昇志向で、ライジンの選手も頑張ったのですが、ベラトールの選手はもっと高い精度の練習をしていたとも言えるでしょう。

個人の能力には差がありますが、それでも懸命に5年10年と練習した人には敵いません。

楽しみ方はいろいろですが、特に格闘技では互いに自信満々でリングに上がり、その持てる力で挑む姿に観客は魅了されるのでしょう。

勝ち負けなど関係なく、盛り上がればいいという楽しみ方もありますが、格闘技とエンターテイメントを分けるのであれば、勝ちに行く選手ことが賞賛されるべきでしょう。

しかし、YouTube でもライジンやベラトールの動画コンテンツよりも、もっと視聴されている動画は無数に存在し、時間や覚悟が同じだと言われてしまえばそれまでですが、選手たちの頑張りが必ずしも視聴される回数に反映しているとは言えません。

ドラマの主人公

ドラマの世界では、主人公を中心に物語は展開されます。

言い換えると、主人公以上に才能があっても、脇役に過ぎません。

つまり、全人類総クリエイター時代になると、それぞれの人が主人公で、自分以外は脇役になります。

そんな状況になると、自身よりも優れた人を視界から外してしまえば、常に自身がトップでいられます。

否定されることもありません。

つまり、そこで作られるドラマは視聴者も自分で、客観的に意味があるとか、価値があるという判断はされず、自己満足だけでは完結します。

最頻値と平均値

統計学を知っている方なら、これらの用語の違いをご存知でしょう。

最頻値とは該当する人が最も多い層で、最高値や最低値から割り出された平均値とは少しズレが生じます。

例を挙げると、ある分野に関するテストを実施し、最も理解していた人が99点で、最も理解していなかった人が1点だったとしましょう。

全ての人の得点から平均値を出すと42点でした。

一方で、最頻値(同じ得点)は38点だとします。

例えば組織のシステム上、30点台と40点台では名称や与えられる権限が異なる場合、これまでは平均値を基準に社会規範が構築されていたとし、今は最頻値を基準にしているとしましょう。

いずれにしても99点を取った人にすれば、どちらのグループも知識不足だと感じでしょうし、話し合いをしても当たり前の前提条件がそのままでは通じません。

だからこそ、意見や考えを段階的に組み替えながら、どんなグループにしても有効になる手段を考えるようになります。

ところが、平均値から最頻値へと基準が変わると、さらにもう一段階、価値観やルールを設けなければいけません。

理由は最頻値の知識だけでは、今まで以上にミスジャッジをして、その度にリカバリーする煩わしさが起こるからです。

社会全体が急速に変化する時代に、最頻値層が中心になることで、全体的は変化の速度は鈍ります。

なぜなら、どう変化するべきか、一本の尺度では理解できていないからです。

つまり、100点の内、38点しか得点できないということは、残り62点分は他の人と話が合いません。

しかし、恐るべきは、時代の変化に人類が取り残されてしまうと、もう意見が合わないことさえ、問題ではなくなります。

言い換え得れば、知識としては38点でも、その38点だったグループ内で支持されれば、それ以外のグループ以上に巨大な組織になり得ます。

これが、人工知能によってシンギュラリティが起こった状況と合致し、もはや人類は自身で理解し成長する必要を失ってしまったことになるでしょう。

人類総クリエイター時代に起こること!?

何かを生み出すことがクリエイターだとして、何をどう意味づけて生み出すかはそれぞれの考え次第でしょう。

ある人の作品を見て、そこに自分には無い創造力を感じ、例えば真似たいと思ったり、研究したりする向上心も、全体として一貫性はなく、個々で感じるものに過ぎません。

芸術的には38点レベルでも、より多くの人から共感されるのは、正に最頻値層だからです。

それよりも得点が高い人には、少し物足りない印象で、でも流行しているものとして受け止められます。

やがて、誰もが38点層に寄せて活動するのは、より多くの反響を得たいと思う人間の承認欲求が失われていないからです。

結果、コンテンツはどんどん収束し、もはや70点や80点クラスの、一部の知識人にか伝わらない内容は淘汰されてしまうでしょう。

「売れているのはこのコンテンツだ!」

結局はバリエーションが薄れて、ツボとなる手段が浅く、クリエイターとして自由なようで、実は窮屈な時代を迎えます。


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