なぜ「高卒」ではなく「大卒」だったのかを深掘りしてみよう!

 「高卒」と「大卒」の違いはどこにあるのか?

従来、生徒が「教育を受ける」と思っていた高校生時代、自己選択する機会が少なく受け手になることが多かった。

一方で、そんな生徒が大学に進学すると、卒業に必要な単位を逆算する形で授業を選択する。

事実、在学期間中に留学や休学を挟んで、4年以上も学校に籍を置くことだって可能だ。

大学教育で重要なのは、「教育を受ける」ことではなく「教育を選ぶ」ということでは無いだろうか。

つまり、学生や生徒という立場のさらに上側にもう一つのステージがあって、そこでは「なぜ学校で学びたいのか?」という問いに対する自分なりの答えがあり、それを達成したくて「教育」を自らの意思で選択し、受けている。

ではそんな意識の変化が社会人になってどんな形で現れるだろうか。

準備された材料を所定の場所から運んで、それらを定められた手順で完成させる。

そんな働き方は、「教育を受ける」ことを経験した人にも受け入れられるのではないか。

一方で、「教育を選ぶ」ことの意味や価値を知った人は、材料をどこから仕入れたらいいのかまで考える。

材料の価格はバラバラだし、納品までの期間も違う。

もう一歩踏み出せば、価格交渉や納期の相談まで担当し、より業務を有益な仕事へと変化させる。

「安くて早い」が良いのは分かっていても、交渉ではそれを勝ち取ることだけがゴールでは無い。

むしろ、価格面では相手の希望を汲み、代わりに納期面で合わせてもらうというようなバランスが不可欠になる。

自由取り引きが大前提の資本主義社会では、プラマイ「0」が基本で、全てにプラスを目指してしまうと、途中で納品業者を失うことに繋がるだろう。

材料が比較的長期間使用できるのであれば、時に相手の都合に合わせて大量の納品を引き受け、その一方で価格面で頑張ってもらうという取り引きだってあり得る。

思うに、本来の「大卒」に目指して欲しいのは、現場力だけでなく、業務の遂行力ではないだろうか。

もちろん、それを高卒ではできないとは思わない。

個人の能力は必ずしも学歴通りではなく、教えられなくてもできてしまう人がいる。

ただ、職場でのチャンスという点では、より多くの従業員がいる会社ほど、その選考に学歴や経験値を考慮することもあって、結果的に大卒であることが出世にも関係していた。

しかし昨今になって会社もその存続に不安を抱えている。

つまり、景気の減退を考えると、多くの資金を費やして事業拡大路線に出るのは簡単では無い。

そして、その流れを意識するあまり、会社経営が現状維持路線になってしまうと、現場力にも影響が現れる。

変化を抑制すると、それまで現場の遂行力をになっていた担当者の役割が薄れ、何らな現場力になって欲しいと考えるだろう。

つまり、考えて判断するのは経営陣で、現場はそれに従えばいいという流れになってしまう。

これは、縦方向に伸縮する経営が、横方向へと動きを変え、求める人材や育成方法にも影響する。

このご時世、ただでさえ現場力をまとめる人材が余っているのだから、その予備軍となる「大卒」者はお眼鏡に叶うように対策しなければいけなくなった。

例えばより優秀に思われるためには何が必要か。

例えばより経験値があると認められるにはどんな活動が必要なのか。

四大とは言っても丸々4年ある訳ではないから、その限られた期間でどんなことを学ぶべきなのかを考えないと、多くの人も取得する「大卒」資格だけで勝ち残れるとは限らない。

大学にはいろんな学部があるけれど、どんなルートを選んだとしても、最終的には社会へと繋がっているし、限られた業界しか知らないままで良いのかは分からない。

つまり、専門性も一般教育がベースで、それは大卒と高卒の関係にも似ている。

意外と専門性だけでは生き残ることができず、「人が生きる」を考える一般教育が担う範囲は広い。

つまり、高卒だからできないことは何もなく、必要を感じた時に社会人から大学で学ぶことだってできる。

ベースができて来たから、専門性をさらに加えていこうと思って大学の門を叩くのも悪くない。

テレビ番組で観た「ある美術大学で学ぶ学生たちのドキュメンタリー」で思うこと

ある学生が、大学受験の予備校で技術的なことを学び、入学後は主に作品の制作意図など、技術面以外の指導を受けることが多いと言っていた。

つまり大学は学生自身が何をどうしたいと思うのかを求めていて、でも「どう思いますか?」とは聞いてくれない。

「何も分からないので一から教えてください」では答えてくれない。

そこで誤解してしまうのが、学生自身が大学を自由な場所だと思ってしまうことだろう。

ここで言う自由とは、「自己選択」という点である。

自分で選ぶのだから、自分の好きなように選んでいいと誤解するのだ。

ではなく、卒業後の自身に必要なことを見つけ出し、その課題に取り組み出して、感じる疑問や課題を大学側に投げ掛けるべきだ。

当たり前だが、絵を描くだけでは収入源にならない。

どうすれば絵が売れるのか、絵以外に稼ぐ方法はあるのか。

逆を言えば、そこが克服できたら、何も心配することなくそれこそ自由に創作活動を続ければいい。

「絵」単体では稼げないと思うなら、自動車会社や化粧品会社など、デザインとして求められる業界に活路を見出し、その調和を考えることも「自己選択」に含まれる。

自分の視点で考えるのではなく、相手のことも含めて「調和」できる部分を見定めて進むこともポイントだろう。

もっと現実的なことを言えば、入試問題を研究する前にその学校の卒業生たちがどんな風に進路を見出したか調べることだ。

例えば美大のでは大学院への進学割合が高い。

あと数年卒業を遅らせて、何か達成できることがあるのだろうか。

個人的な経験談として、こみちは貧乏学生だった。

長期休みには一層バイトばかりしていた。

一方でクラスメイトの中には、そんな長期休みになる度に海外へと旅立ち、その各地で現地の人とコミュニケーションを取り、「世界」というものに目を向けていた。

詳しく知らないけれど、ワーキングホリデーのような制度を活用すれば、就労と経験の両方を手に入れられるのだろうか。

少なくとも、当時のこみちはそんな華々しく輝いていた連中の「作品」を目の前にして、技術では克服できない差を感じていた。

こみちの考えることは、いつも実体験ではなく、想像でしか無い。

だからいつも「〇〇風」とか「〇〇っぽい」でしかなかった。

社会で生きることで、ようやく現実を知り、想像することでしか分からない感覚が現実味を帯びて来る。

しかし、その現実はどうしても日常生活に密接して狭く、時に押し付けがましい部分が多い。

何事にも縛られずに想像したくても、結局は広い実体験を持っていないから、出口ではいつもありがちな見解に落ち着く。

斬新なアイデアを求められても、それに応える背景が不足していた。

かと言って、技術面だけで競い合いうと、現場に強い連中が既にかなりの経験を重ねている。

ぼやぼやしている間に、一気に中途半端な立場に押しやられてしまう。

未来を切り拓く力も無いし、現場を回し切る忍耐も無い。

競争原理の本質を知らなかった結果だろう。

大学は偏差値だけで決める所では無いし、大学に行ったら素晴らしい人物になるとも限らない。

高い学費は「大卒」資格の値段ではなく、在学中に大学を使う利用料ではなかったのだろうか。

授業を聞いて、その話を理解するだけではなく、自身の未来にどう関わるのかまで考えて、時にはその狭間にある疑問や課題を教授にぶつけてみればいい。

例えば「もし先生が私と同じ年齢だったら、何をしていたのか?」と。

その答えにハッと気づくことができたら、大学進学の価値は一気に高まるだろう。

そのためにも、聞く教授のこれまでの活動実績もまた大切になるだろう。

どんな功績を残し、どんな書籍を書いて来たのかを調べれば、是非とも聞くべき相手なのかが分かる。

尊敬できる先生がいる大学を選ぶのも、そう言う意味では悪くない方法だろう。



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