なぜ、「人気YouTuber 」は世間の常識を嫌うのか?を掘り下げる

 見えてきた「YouTube 」の本質

従来のビジネスのセオリーは、YouTube では尊重しない方がいい。

と言うのも、例えばこれからラーメン屋を開店させたい人がいて、それが資産運用ではなく生きる喜びとしてなら、「旨いと評判である」ことを拒む人はいないだろう。

でも、資産運用の一環として行うなら、「美味い」も大切だが、利益率や収益性を軽視することはできない。

儲からないことに資金や時間を費やす意味がないからだ。

では、「YouTube 」を攻略するにはどうすればいいだろうか。

結論を言ってしまえば、「再生回数」を最優先にしたいなら、見てくれる人が望むコンテンツを作ることだ。

一般的には、食欲や所有欲など、人にはいくつも欲がある。

特に認められたいという欲は根深いから、人は「努力した」こと以上に「評価される」ことが人和ませる。

例えば、プロスポーツ選手になるには幾つもの壁があって、その壁を越える過程で限界や持続力を失い、プロへの夢を諦める人がいる。

でもそこまで頑張ってプロになる人は、「プロ」ということに誇りを持っていて、それは同じ立場のプロにも同じリスペクトがある。

相手へのリスペクトを知識やマナーとして学ぶのではなく、自身がこれまで歩んだ中で見つけ、言われなくても相手の努力にも共感するし、認め合えることにプロ選手としての人格も生まれる。

これは何もプロスポーツ選手だけではなくて、料理人や医師、サラリーマンなど、どんな職種でも経験を積む中で、プロという自覚が芽生える。

だから、下積み期間が無駄なのではなく、下積み期間がより自身の人生を意味あるものへしてくれるとも言える。

さて「YouTube 」をプロによるコンテンツの場と考えれば、それまでの経験や知識、技術を共有することもできる。

なぜなら、その人が歩んで来た時間や努力に共感したい人がいるからだ。

一方で、「再生回数」という部分に注目すると、必ずしも「プロ」であることが必須ではない。

むしろ、常識を重んじることで視聴者のニーズを見失う可能性がある。

「こうでなければいけない」「こうであるべきだ」

そんな常識が、時に堅苦しいコンテンツに感じる。

努力したけれど、プロにはなれなかった。

そんな人にとって、プロとして活躍している方々を眩しく思う一方で、見たくない存在になることもある。

なぜなら、自分は認められたいとどこかで思いながら、でも認めてはもらえないと感じるからだ。

もっと頑張ればいいというアドバイスもあるが、みんなが強くて、頑張れる人ばかりではない。

例えば、そこにプロではなく、セミプロやアマチュアのカテゴリーで競い合える世界があったらどうだろうか。

もしかすると、そこなら自分もまだ頑張れるかも知れないと思うだろう。

YouTube にはそんなニーズを受け止める役割もある。

一方では、常識を重んじる人や常識を重んじるあまり挫折経験で落ち込んでいる人からは、「そんな方法ってありなの?」を思われるコンテンツも登場するだろう。

本来なら、それこそラーメン屋であるところの「旨いラーメン」が作れないラーメン屋が儲かるはずはないし、それで評判になるとは考え難い。

でもYouTube はちょっと違っていて、「視聴されること」を求めているだけで、「上手いラーメン」を欲しているとは限らない。

つまり、「楽しめること」を満たしていたら十分に存在価値が生まれる。

人気YouTuber なのに辞めてしまうらしい!?

もしかすると、人気YouTuber も段々とギャップを感じているのではないだろうか。

これは勝手な仮説だが、人気YouTuberでも途中から「プロ」になりたいと思った時に、YouTubeのファンから求められていることとの間にギャップが生まれて、動画を作ることがストレスになってしまうのかもしれない。

もっとこんな内容にしたいけれど、求められているのは全く違う自分という部分で。

ある意味、根っから常識に捉われない人や、その道のプロとして活躍している正統派は、そもそもそんなギャップに悩むことも少ない。

しかしそれ以外の人気YouTuber として活躍している人の中に、「常識人」にはならないと決めて生きる人がいるのだろう。

「そこにプロとしての価値があるのか?」と自問自答した時に、「再生回数が多い」という目安で生きられる人なら良いが、「いつまでこれを続けていくのだろうか?」と疑問に感じたら継続は難しい。

そもそも、プロという存在は、アマチュアから正常進化した結果。

プロになるとは、その正常進化を通った人。

つまり、動画コンテンツ作りのプロであれば、YouTube だからと言って本来ならギャップなど感じはずはない。

でも感じてしまう。

それは視聴者層の本音に気づいた時だ。

何を魅力として観てくれているのかを不安に感じると、どうしても作り手は無理をしてしまう。

プロであれば、「無理難題」もプロ的な見せ方でファンの期待に応えられるが、プロに到達していない人気YouTuber の中には、どうしても無理な方法で自身を苦しくしてしまうのではないか。

そんな風に想像すると、人気YouTuber の中に世間騒がせる人がいたとしても、彼らなりのプロとしての生き方だと思う。

それ以上に常識人として染まってしまうことの方が、怖いとさえ感じるのだろう。

YouTubeという場所 が、こみちのようなプロにもなれず、覚悟もできない凡人には難しい理由が分かって来た。

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