政治家が言った「一番じゃなきゃいけないのか?」を思い出す
アマチュアからプロになれる人は、全体の1割いるだろうか。
より少ない割合だからこそ、そこに希少価値が生まれる。
熾烈な競争社会がなければ、「価値」さえ生まれない。
かと言って、ギリギリでプロになったとしても、その後は「プロ」という肩書きが残るものの、プロの世界で活躍はできないだろう。
選ばれたプロの中でも、さらに熾烈な競争があるからだ。
いわゆる国内の市場は、同じ環境や文化を持った人々だ。
違うのは根底ではなく、成長過程で生まれた「差」に過ぎない。
しかし、市場を世界に向けると一変する。
スピードやパワー、スタミナと、ありとあらゆる部分が根本的に違う。
言い換えると、それまで問われていた部分だけでなく、もっと根底から問われることになる。
スピードに長け、それを武器に競争力を高めた人が、太刀打ちできないスピードに面食らう。
国内市場で国内向けの企画が、世界で通用しないのも無理もなくて、それだけ様々な価値観が世界には存在するということだ。
「一番であること」というのは、二番や三番とは違う。
最終的に生き残るだけの価値が「一番」という存在にあるからだ。
こみちが絵を描く時に感じること
レベルが似ている人の絵を見ると、「上手いなぁ」と思う。
でも、圧倒的に上手い人の絵を見て「上手い」とは言わない。
むしろ、黙ってしまう。
何故か?
そこには、こみちがたどり着けない世界観があって、息をのむからだ。
少し偉そうなことを言わせてもらうと、絵の世界も「トレース」で追えるレベルはアマチュアだと思う。
ではプロとは何か。
それはきっと「温度まで感じられるほどの描写」だろう。
「温度」をどう描くのかというと、形ではなく「本質」に肉薄することだ。
そこにそれぞれの描き手のこだわりがあると思う。
つまり、こみちくらいのレベルまでは、才能とは無関係で、誰でも正しい指導を受ければ到達できる。
しかし、そこから先はどんどん人を選ぶ。
言うなれば、「プロ」の世界だ。
実際、プロの絵には一切の無駄がない。
つまり、それくらいの意識で描くプロなら、人生をそれだけに注いでも足りないと思うだろう。
あれもこれもできるという段階では、つまり二番や三番ではまだその境地に到達できない。
だから、プロの絵は面白いし興味も湧くし、憧れるのだろう。
国内勢が勝てない背景
結論を言えば、一番になろうとしていないのだろう。
「そこそこできる」というレベルで満足してしまう。
そして、二番や三番のレベルは、上手く行く時は気にならなくても、牙城が崩れると脆い。
コロナ禍の影響で国内に注目が集まっていたが、いざ世界にまで範囲を広げると、意識を変えなければ勝てないことが増えた。
「何でもできる」という段階に甘んじないで、その道のプロとして突き進むことが、結局は最後に輝けるのではないだろうか。