「禁じ手」を使うとどうなるのか?

 人生における「禁じ手」

例えば、老後まで10億円の資金で賄えたとしよう。

20代の内にその10億円を稼いだ人はいて、その人が「これでもう大丈夫だ」と思ったとする。

しかし、人生は資金だけではなくて、健康やメンタル面も大きく影響する。

特に「孤独」や「孤立」は、健康やメンタルを著しく損なわせてしまう。

ある意味で、20代の内に10億円を稼ぐのは難しい。

稼げたとしたら、何を代償にしたのかが気になる。

今の時代、知名度や影響力があることで稼げるようになった。

でも有名になるとは、無意識に知らない第三者からの視線に堪えることでもある。

一般人として、並の生活で試算した10億円も、見栄や目立たないためにと意識すると、それだけ余分にコストが掛かる。

そして、その資金が底をついた時、さらに加速されて孤独感が押し寄せる。

もう一度社会に出るとして、どう関わればいいのか。

一般人として、社会にどう溶け込めばいいのか。

「あの人は今?」という記事を見つける度に、人はどれだけ「有名税」を払い続けるのかと心配になる。

10億円を目標とするあまり、必要以上に露出された知名度が、平凡な暮らしを許してくれない。

その時、お金では解決できないものを知るのだろう。

有名人が一般人よりも稼ぐことができるのは、そんな代償を晩年に先送りさせたから。

20代で簡単に10億円が稼げない理由もそこにある。

無理やり10億円を突破する方法を「禁じ手」と呼ぶのには理由があって、望むも望まないも老いた頃になって「ツケ」が回されて来る。

ある瞬間に

行き当たりばったりの人が、偶然にも大金を稼いだならまだいい。

しかし、本当は繊細で、それを隠していたタイプの人が大金を掴んだ時が大変だ。

なぜなら、ある瞬間、他人のことが分からなくなってしまうから。

「ありがとうございます」といつものように言われただけなのに、その人が本当はそんなことを微塵も思っていないと疑ってしまう。

自分という存在ではなく、客として、お金を払う人として言っているのではないかと。

でも、本当は人なんて相手のことをそんなに思っていたりはしない。

無意識に「ありがとうございます」ということだってある。

時には軽く「ありがとう」でpと済ませることだって多い。

でも、そんな些細な変化にさえきっかけは存在し、有名人が平凡に生きることを妨げる。

「落ちぶれた」と思っていたのではないかと。

そこまで疑い始めると、もう10億円、いやどんなにお金があっても、見栄を張って生きることでしか生きられない人生になる。

高い物を買えることを世間にアピールしてしまうのも、ある意味でそんな予兆だろう。

なぜなら、ずっと欲しかったなら問題ないが、「日常生活」とは他人からの評価のためにあるものではない。

でもそれが難しくて、「お金を使うこと」でしか考えられなくなる。

例えば、有名なプロスポーツ選手が引退して、始める子ども向けの支援があるだろう。

活躍できたのは、自身の努力も大きいが、多くの人に支えられたこともある。

だからこそ、頑張っている子どもたちに、地域支援としてサポートを始めるのだ。

地域支援としては、現場をサポートすることも大切だが、資金援助があるといろんなサポートへと繋げられる。

その意味でもお金に余裕がある人や企業が、地域支援に踏み出すのも流れとして納得できる。

子どもたちに夢を与えられる存在になれた人は、そんな経緯を経ていないだろうか。

つまり、「禁じ手」を使ってしまうと、そんなサポートも難しい。

なぜなら、いつまでもいい人に見せたいだけの「パフォーマンス」と捉えられるからだ。

だから、やっぱり法に触れなくても、「禁じ手」と呼べる方法は慎むべきだ。

結局は、自分で自分の人生を生きづらくしてしまう。


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