動画視聴の役割
例えばYouTube をどんな風に使っているだろうか。
こみちの場合、仕事や家事では音楽を聴いたりトークショーを耳にすることが多い。
寝る前になって、画面を見て動画視聴をしているが、気づけば寝ていることも多いから、その視聴時間は1時間を超えてはいないだろう。
つまり、ユーザーは年齢や好みに差があるとしても、一日中画面を見て視聴できる人の方が圧倒的に少ないと思うし、通常は日常生活で忙しく動き回り、休憩中や寝る前などに、テレビや読書、ゲームなど、いろんな選択肢の中から動画視聴が選ばれることになる。
もしもそうだとするなら、動画視聴を選択する時ってどんなシーンだろうか。
最近は少し熱が冷めているが、ワイヤレスイヤホンが欲しかった頃は、各社の製品をレビューしている動画をいろいろと探して観ていた。
人によっては、車やバイク、料理など、趣味や必要性があって動画を観ている場合も多いはず。
「テレビ番組」というコンテンツ
昨夜、たまたま点けたテレビで、ある女性タレントが歌を歌っていた。
思わず画面を見てしまうほど、音を外している。
理由はヘッドホンをつけて別の音楽を聴きながら、歌を歌うというチャレンジ企画らしい。
それを理解して、こみちはちょっと疑問に感じた。
というのも、その女性タレントのファンでも無い限り、聞くに堪えられない内容だったからだ。
ひと時の癒しとしてテレビをつけたなら、なぜも不快な音を耳にしなければいけないのかと思ってしまう。
つまり、コスパのいい企画として考えたものだったのかもしれないが、テレビを観たい時って「ニュース」や「天気」、「笑い」など、決して不快感を求めてはいない。
ある作家が小説を書く時に、書き出しで気をつけるポイントが、読者に「違和感」を抱かせない流れだと言っていた。
つまり、書き出しから始まる物語の世界観に、「???」と違和感を感じられた瞬間、読者はもう物語の世界観に浸ることができなくなってしまう。
音痴であることを「笑い」とする時に、そこに違和感を持たずに視聴者が笑えるなら番組としては成立している。
でも、「音痴」が悪いこと、笑われることなのかと疑問を持つと、一変し「どこが面白いの?」と思うだろう。
言うなれば、「上手く歌えない」ことをディスることでは今の時代、笑いには繋がらない。
では、歌手の歌声に似せたモノマネ芸人の歌ならどうか。
「似ている」が癒しになるなら企画としてありだし、だったら「動画視聴」で本人の歌声を聴きたいでは企画として失敗になる。
テレビしかなかった昔とは違い、テレビ番組はどう視聴者の癒しになれるかがより深い部分で問われている。
自身の動画を視聴してもらうために
視聴してくれるユーザーの持ち時間はそんなに長くない。
その僅かな時間を多くのYouTuber が分け合って視聴時間を稼いでいる。
つまり、全てのカテゴリが満遍なく満たされる訳ではなく、人気コンテンツばかりが集中的に視聴されることになる。
視聴されたいなら「視聴されるコンテンツ」でなければいけない。
初めて車を購入したい人と、既に何十年も運転し、さまざまなタイプの車を所有して来た人とでは、同じ「車」でも欲しい情報は違ってくる。
テレビ以上に車雑誌などでは、より深い情報まで掘り下げて解説してくれた。
それは素人が目にすることができない車の内部や構造的な部分にまで及び、価格差の理由やコンセプトの違いまで知ることができた。
一方では、ネット上の情報はある部分だけが豊富になり、別の部分を小さくしてしまうことが起こる。
それは雑誌が一冊を通して構成されているのに対し、ネットの情報は検索でヒットした情報が優先されてしまうからだ。
テレビや雑誌に携わる人は、明確な目的やコンセプトを立てて、そこから各コンテンツへと落とし込んで行くだろう。
そうすることで、各コンテンツ間にも繋がりができて、全体としてまとまりあるシリーズとなるからだ。
一方で、動画コンテンツではどうだろうか。
例えば車旅チャンネルとして日本一周企画を立ち上げて、東京を出発する第一回目から、視聴してもらえる求心力はあるだろうか。
そもそも持ち時間が限られているユーザーが、そのチャンネルのコンセプトから読み取り、シリーズを追ってくれるまでになったなら、それは大成功のコンテンツだろう。
つまり、間延びしそうな条件を守るよりも、一本毎に面白い内容で勝負した方がいいと思う。
以前にも触れた部分だが、「車上生活」というワードでどれだけ興味をそそれるのかから考えた方がいい。
天気の良い海岸線沿いの景色を伝えたいなら、車よりも自転車の方が伝わるだろう。
「車」であること。「車」でなければできないこと。
その条件が、意外と厳しく感じる。
さらに、内容として価値あるものだとしても、動画として視聴されるとは限らない。
視聴されるには、視聴している人のニーズに合っていなければいけないからだ。
中高年のようなベテラン勢と十代の若者たちでは望む展開もシチュエーションも異なる。
「そんな内容で?」だったとしても、観てくれる人がいるならコンテンツとしては成功だ。
一方で、凝って作っても観てもらえなければ、視聴目的としては目標達成にはならない。
人がどんな風に幸せを感じるのか考えることで、視聴されるコンテンツ作りの一端を感じられるのではないだろうか。