なぜ、奇才な人は斬新なビジネスを思いつくのか?

 テニススクールの話

これは、もう随分昔の話ですが、こみちがテニスを少しだけかじっていた頃に、県大会で優勝経験もあるベテランの選手と会話していた時のこと。

「それだけ上手いのに、なぜ、コーチとかトレーナーとかにならないの?」と聞いた時でした。

実はその前にYouTubeのことを話していて、「テニスのコツを解説してくれたら見たいけどなぁ」と聞いた後でもありました。

「単純に上には上がいるから」

「でも、教えるの上手いし、分かりやすいけど」

本当にそう思って口にしたものの、彼は頭をかきながら返答に困惑していました。

イラストに置き換えて

こみちの趣味は絵を描くこと。

でもプロレベルではありませんし、趣味レベル。

じゃ、こみちよりも上手い人だけが先生をしているのかというと、実際はそうではありません。

美大芸大の経験者でなくても、「プロ」を名乗る人はたくさんいます。

言い換えれば、美大芸大の経験者にしかないものって何でしょうか。

こみちは以前、デザイン会社に勤務していて、その時はこれでも稼ぐという意味では「プロ」でした。

職場の同僚は大半が美大や美術系の専門学校を出た人です。

そんな彼らに共通していたのが、「美術」に対する「学問」を学んでいたこと。

つまり、「上手い」「上手くない」の感覚ではなく、色や形が意味するものを学術的に学んで、仕事に活かしているということでした。

それはどんな時に現れるかというと、「自分スタイル」を崩した時です。

言い換えれば、独学や趣味で絵を描く人はこみちも含めて、「自分スタイル」を崩せません。

なぜなら、崩した時に、どう崩れているかを比べる指標を持っていないからです。

学術的に学ぶとは、その比較ができることであり、意図的に変化させたとしても、どう崩したのかを理解しながら行えます。

美大受験でデッサンを学んだ人を見ると、いい意味で「同じような絵」を描きます。

それは技術を学ぶ中で、段々とコツを掴み、それは結果として合格に値する「デッサン」を学ぶことでもあるからです。

奇才とは何か?

こみちが思う「奇才」とは、一般的に学ぶはずの基本を、結果的に学んでいないまま進化した人だと思います。

つまり、美大合格を目指して、デッサンを学んだ人の絵は、どこか共通点があり、完成した絵にも特長が見られます。

全く話は違いますが、自転車や車を運転する時、別に意識することなく運転を始めるのではないでしょうか。

それは、いつに間にか身についた「クセ」があって、特に意識しなければ、過去の経験から運転を始められるのです。

つまり、絵を描く時も同様で、美大受験経験者は、無意識に「絵を描く」時に「クセ」が出ます。

一方で、純粋に「美術」を目指している人は、美大で学ぶことよりも、海外での活動を優先したかもしれません。

なぜなら、既に自身が目指す「スタイル」があって、その先を目指すなら海外のアーティストから刺激を受けたいと思うからです。

しかし、その時も憧れのアーティストを分析するのではなく、感覚的に感じたいだけで、それは自身の作品に不用意な干渉を望んではいないからでしょう。

奇才に見える人とは、多くのプロがたどるべきルートを歩いてはいません。

なぜなら、同じ方向を進めば、個性が消えてしまいますし、あるレベルに到達しないと「プロ」にもなれないからです。

再びテニススクールでの話

もしも県大会で優勝経験した人が、社会から始めて、特に誰からも指導を受けていなかったら、きっとそのテクニックをYouTube でも公開したでしょう。

実際に、何事も初心者の時には難しい技があって、いろいろ苦労します。

指導者にアドバイスしてもらえば、一番効率的に学べますが、一方では「型」ができてしまいます。

中級者くらいまでは、その方が簡単に上達しますが、上級者になってくると、自身の才能の限界にも気づきます。

言い換えれば、誰かから学ぶことで中級者になった人は、それを誰かに伝えることに躊躇います。

理由は簡単で、上級者がいると知っているからです。

一方で、本当はトップレベルではなくても、何かの面で吐出していれば、それをビジネスに転換することはできます。

理由は、「根拠のない自信」があるからです。

理由を説明しようとしても、他人には腑に落ちない部分が出て来ます。

それは、つまり、基礎を知っている故に答えが決まってしまうからです。

一方で、自己流の場合、一見すると見慣れた行為でも、結果が全く異なることがあります。

理由は基礎を網羅していないので、通常では考えられない結果を出せるのです。

余談

あるバイク雑誌に掲載されていた漫画が、もうトレースしていると思えるほど線が狂っていませんでした。

模写という意味では、凄いということですが、美術的な価値という意味では、ほとんど個性はありません。

でもそれができてしまう理由は、きっと美術を本格的に学んでいないからだと思います。

写真と間違うくらい「上手い」に価値があると思ってしまうのでしょう。

しかし、美術を学んだ人なら、写真同等に描くことがそれ価値あるものとは思いません。

なぜなら、トレースしてしまえば、「できる」と知っているからです。

それよりも、「美術的にどう表現するのか?」で、才能を見いだすことに悩むのです。

基礎がある人が好む「玄人受け」と、何も知らない人が好む「一般受け」は明確に違っていて、今はいかに一般受けすることに特化できるかが大切です。


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