平均的であるということ
世間で中高年と呼ばれる年代を迎えて、気づいたことがあります。
というのも、若い頃の感覚では、「平均的」であることの意味を誤解していたからです。
例えば、偶然にこの記事を目撃した人が、まだ30代なら、少し考えて欲しいと思います。
もしも、こみち同様に、40代を超えてしまう年代なら、「もっと早く気づいていたら」と思うでしょう。
これは本当に誰にでも言える話なのですが、「平均的」つまり数字にするなら「50」に達した段階では、海のものとも山の物ともまだまだ分かりません。
人生でいうなら、社会人となった初年度を指します。
もちろん、人によっての「50」は異なることになりますが、何よりも「平均的」という部分に意味があります。
そして、成長の速さも個人によって異なりますが、感覚的には30歳で「70」に到達した人は全体の上位10%に入っているのではないでしょうか。
こみちが若い頃に誤解していたことの一つが、ここでいう「70」の意味でした。
人としての常識やマナー、さらには仕事を通じて感じたスキルなど、それらを総合的に判断して「70」を目指していると思っていたのです。
と言うのも、こみちには大手企業に勤務していた時期があって、その時に職場はとても穏やかでした。
実際には、繁忙期もあって忙しい時もあり、残業も徹夜もあったのですが、それは退職後に入った中小企業の日常と同じだと気づきます。
何が言いたいのかというと、事業規模や業界によって「多忙」のイメージは全く違います。
今は介護士として介護施設で働いているのですが、今の「多忙」もまた中小企業とも根本的に異なります。
つまり、就職して一つの会社でずっと働いて来た人は、ある意味でその職場の常識が平均的の基準となります。
しかし、実際には平均的も様々ですし、それぞれの場所で求められているスキルや知識も異なるのです。
つまり、30歳で「70」を超えたいと思う時に、何をどれくらいできたら良いのかという部分で、例えば視野を広げるとか、経験を豊かにするという類いは、どうやら基準を複数持つことになるだけで、「70」に近づくことではありません。
そこに気づかなかったこみちは、結果としていろんな職種を経験し、それぞれで求める「平均的」を目標としていたことになります。
それゆえに、例えば「70」を超えて「80」や「85」くらいある人を見た時、凄いと感じる部分と同時に意外と伸ばしていない分野も多いことに気付かされます。
つまり、全部の領域を満遍なく成長させてしまうと、時間が掛かりすぎてしまい、結果的に中高年になってもそれほど成果が現れません。
その内に体力が衰えて来て、いざ前に進もうとしても、若い頃のような勢いが得られないままになってしまいます。
ダメな分野があって当然!
とても結論に近い話ですが、すべてで100点を取ることは時間的に無理があります。
つまり、例えば「東大に合格する」というような他人が決めた基準に自分を当てはめるような目標は、向き不向きによって左右され、もちろんその形に当てはまれば、それだけ社会的には評価されるのですが、それだって100点を意味するものではありません。
これも勤務して会社に、東大出身者がいましたが、職場で見る彼らは本当に様々な評価を受けていました。
それだけ、テストで得点することと社会に出て求められることは異なります。
特徴的な話として、「肉と魚のどちらが美味しいか?」というような質問を投げかけた時に、知識豊富な人ほど、もう少し条件が欲しいと思うでしょう。
つまり、本来ならどちらでも好きだと思った方を答えるだけなのですが、知識豊富ゆえに、単純な投げかけほど、苦手だったりします。
別にこみちが頭脳明晰と言っているのではありませんが、本当に簡単な問ほど答えられません。
洋服のデザイン。好みのケーキ。
好きな方という簡単な問いに、「なぜ、それを選ぶのか?」という理由づけを求めてしまうのです。
つまり、テストのように、問いと答えがセットになっていることに慣れてしまうと、その分野は得意ですが、自分の好みやセンスを問われると、急に何も答えられなくなるのです。
その意味では、受験勉強だけを真面目にした人と、いろんなことの中で勉強もした人では、思考のパターンが異なります。
言うなら、「勉強」の分野で「70」を超えるなら、少なくともその分野に関連した業界で活躍した方が成功者になれるでしょう。
「50」と「51」と「49」の話
平均的が50だとしたら、それよりも少しできる「51」と少しだけできない「49」があります。
きっと、その差は分からないほど分野微妙ですが、競い合えば明確に勝敗が決まります。
試験で言えば合格と不合格のようなものです。
70というレベルが相当に格上だとしても、51を取れるなら「合格」になります。
しかし、49の人はほとんど大差ないのに「不合格」になります。
実はこの差は、半年くらい始めるのが早いか遅いかくらいのもので、それこそ個人の能力とか才能の領域でもありません。
もちろん、適性があれば成長も早いはずですが、それ以上に50前後の差はタイミング次第です。
でも、結果として一方は合格を含めて希望を着実に叶えていき、他方は努力してもそう評価されることもなく平凡に終わります。
つまり、全部を51にするくらいなら、求められていることから51にしていけば良かったのです。
言い方を変えれば、期限に間に合うように「51」になった人は未来が明るく、少し遅れたり、途中で立ち止まってしまう人はいつだって「待たされる側」なのです。
無駄なこともたくさんしているけれど、こみちだっていろいろと努力していて、何が自分に向いているだろうとずっと考えてきました。
でも結果には出ていません。
先ほど、こみちのYouTubeチャンネルの登録者数が「40」人になっていました。
もっと多い人もいれば、少なく人もいます。
同じイラスト系でも、登録者だけを比べてば、本当に全く評価が異なります。
じゃあ、こみちよりも少なく人がこみちよりもイラストが下手なのかというとそれは別問題。
つまり、こみちよりも活躍している人でも、ほとんどイラストを描かずに集客できている人だっているはずです。
もうお気づきだと思いますが、チャンネル登録者というシステムに合っている人は早く評価を得られるでしょうし、こみちのように好き勝手にイラストを描き続けても、爆発的登録者が増えることはありません。
こみちが登録者数を増やしたなら、その評価に沿った「51」を目指すべきなのです。
「良い線言っているなぁ」でも「49」以下なら、評価されません。
若い頃にもっと早く「51」に気づいていたら、若い頃に身につけるべきことから手をつけたはずです。
つまり、最終的には同じことでも、その人生を振り返ると、順番や順序を意識することで幸福度合いは全く異なることに気付かされます。
時間がないことも折り込み済みで、その時にどれだけ頑張ることができたかがポイントだったのです。
自分よりも明らかに優秀な人のことなど気にすることはありません、
自分が直近の目標で「51」を獲得し、次に進めることが唯一で最大の人生を楽しむ条件です。