速いから良いとは限らない!?
負け惜しみと言われるかもしれませんが、「世界陸上」を観て再確認したことがあります。
それは、何か1つでいいので「人並みにできることがあったらいいな」ということ。
じゃあ、ランニングという分野では「人並み」とはどれくらいを指すのでしょうか。
3キロを立ち止まらずに走れたら…。
フルマラソンを完走したら…。
世界陸上やオリンピックでメダルを取ったら…。
人によってその基準は違うと思いますし、誰にもその正解は分かりません。
言えることがあるとするなら、「自己満足」できるかどうか。
ランニングをしていると、やはり少しでも速く走りたいと思ってしまいます。
そのためにフォームの研究もして来ました。
このくらいの動きができたら、どれくらいのペースで走れるのかも段々と掴めて来て、次の目標としてそのスピードでどれだけ長く走れるのかという課題は自然の流れでしょう。
しかしながら、例えば「フルマラソン完走」が全てのランナーの目標ではないし、サブ3になったから未来が約束されるとは限りません。
もっと言えば、キレイなランニングフォームで走れても、そこに価値や意味があるかは「自己満足」ですし、自分がどう望むのかに尽きます。
客観的に実力が認められたら、国内の実業団に所属して、さらに「走り」に磨きを掛けるという選択肢もあるでしょう。
つまり、それはランニングだけではなく、どんな分野にも通じていて「自己満足」から「社会的な承認」へと変化することでさらに次のステージへと進めます。
その意味では、単純にタイムを縮めることが大切なのではなく、「社会との関わり」の持ち方が整わなければ、速いか遅いかはあまり大きな意味を持ちません。
その証拠に、こみちがキロ4分ペースで走っても、7分ペースで走っても、たまたまこの記事を読んでいる人にとっては、「フーン」という話です。
何なら、今朝10キロ走ったのですが、何分で走れたかは大きな意味がなくて、99%は「自己満足」です。
あるとするなら1%の部分で、誰にとってランニングが楽しくなる何かになれば嬉しいという話です。
ペースよりも走ったことが大切!
ペースでも距離でもありません。
ランニングをしようと思って、朝日を眺めながら走ることに意味があって、その空気感が「朝」を感じさせてくれます。
段々と日の出時刻が遅くなり、気づかないようで「秋」の気配が近づいていて、もっと言えば同じような「朝」ですが、時は確実に移ろいでいます。
どう時間を使うのか。
それは人によって違うと思いますが、たまたまこみちの場合はランニングをしている。
そして、また別の人もランニングや散歩をしていて、「おはようございます」と軽い挨拶ですが、言葉を交わす。
接点はその瞬間だけですが、やはり意図して動けば、そこには関係性が生まれます。
ランニングをしていなければ、別の関係性ができたでしょう。
そうやって、人は自ら選びながら、時間を使って生きています。
そんなことを考えると、ランニングをしていることに意味があって、速いも遅いも大きな問題ではなくて、それこそ自分が好きなように選べばいいと思います。
今日も走れたということに感謝です。