「絶対」という概念

 人が憧れる「絶対」という概念

社会人となって、仕事をいかに効率的に捌くかと思い立ったら、「目標」を定めて「手段」へと思考を巡らせることだ。

その際の「目標」こそが、「絶対」と大きく関わる。

もしも、「人はなぜ生まれたのか?」や「幸せとは何か?」という答えに行き詰まりを感じるなら、「絶対」という存在を疑ってみればいい。

逆を言えば、「大金持ち」では幸せになれるとは限らない。

仕事が順調でも、憧れる人と付き合えたとしても、幸せになれるとは限らない。

だからこそ人は「絶対」という概念に長く憧れて来た。

スポーツとは何か?

ルールが明確なスポーツには、「想定される絶対」が実社会以上身近だ。

それは「勝利」に象徴されるし、チャンピオンという存在が「絶対」を具現化したものだろう。

とは言え、レフェリーのミスジャッジによって、状況が一変してしまうことがあり得る。

人が行うのだから、それは仕方ない部分とも言えるが、仮想的に作り出す「絶対」にも懸念される隙がある。

0と100は存在しない!?

前評判での評価を覆すことがスポーツの試合ではよく起こる。

それは、絶対が存在しないからで、仮に部の悪いチームも奇襲戦で勢いづけることがある。

また、ルールを巧みに味方にすれば、弱点を極力無くして挑むことができる。

そこがスポーツの醍醐味でもあり、実社会とは異なる部分でもある。

つまり、スポーツでは簡単に決められた勝ち負けさえ、実社会では容易に決められない。

と言うのも、スポーツとして勝利しても、実生活で失敗すれば、人生としての評価は異なってくる。

世間的に華々しく輝いた人が、晩年はひっそりと暮らしていたりするのも、輝くために費やしてこその結果で、全てを手に入れられたのではない。

羨ましがられるモノを誇示してアピールする人ほど、意外と当たり前の幸せを持っていないから不思議だ。

凄いと思える人も、別の誰かと対峙した時に見劣りしてしまうことがある。

最近でも、ある格闘家が絶対王者だと評判だったが、負けてしまった。

別の専門家の分析では、絶対王者故の苦労があったのではと指摘する。

つまり、自身よりも格下の中では、相変わらず強さを誇示できる。

しかし、同じくらいの相手が、さらに切磋琢磨すると、段々と明確に差が生まれてくる。

国内だけでは補えないと言われるのも、スポーツに限ったことではなく、大学進学のような分野にも言えるだろう。

先ずは「絶対」を手に入れて!?

人は、いつも「絶対」を求める。

中には、上を目指すことを無意味と考え、現状の中での「絶対」に何らかの理由を探す。

例えば歌の上手さという話で、音程を守ることが大切だ。

でも、根底を言えば、機械で完璧に再現しても、人が求めているのは「絶対的な歌」ばかりではない。

つまり、そこまでの過程や個人の人柄に、感動の種が眠っている。

何も努力しないで上手い人も凄いけれど、努力してさらに凄い人はもっと凄い。

そして、そう上手くなくても、努力している背中に魅了されることもある。

それらは全て絶対が存在しないからで、何よりも人は絶対を求めながら、絶対そのものに反応しない。

だから、本当に凄いことが評価されず、努力する姿に興味が集まる。

それは観ている側の感覚が絶対的に完成されたものではないからで、興味や関心が「成長過程」に委ねられている。

つまり、多くの人から興味を持たれている状況は、その対象物が優れていることを証明しているとは限らない。

そうではなく、まだ誰にも評価されていないものでも、時代が変化して気づかれることもある。

今の風潮として「分かりやすさ」を挙げることがある。

例えば集客力のような指標で示される。

どんな風に歌えたら、集客力を高められるだろうか。

多分、ある程度を超えたら、もう上手さだけではないことに気づくだろう。

十分に上手いのに売れていない歌手も多い。

言い換えれば、それほどでもないのに、売れている歌手もいる。

社会が絶対を求めていないからで、むしろ流行のようなタイミングにマッチすることの方が意味を成す。

昔は、何はともあれ努力だった。

でも今は、どう評価を稼ぐかになって来た。

運に任せた方がいい人にとってはいい時代だろう。

でも、時代がまた変化していて、運だけでは超えられない仕組みが出来つつある。

コロナ禍で制限された時代が過ぎて、また世界の中の日本に戻った時、その時代の評価は過去になってしまうだろう。

絶対は存在しないとしても、かなりの完成度の人材が行き交うようになった時、もう運だけでは太刀打ちできないから、やはり誰もが悩みつつも努力するしかないのだろう。

そして、その紆余曲折が人生で、結局は絶対と呼べるものに触れることなく終える。

でも、それこそが人生で、ああだこうだと考えて過ごすこと、つまり何か確信できる絶対的な指針さえ見つけられない。

時にはそれでも信じ、または信じることが大切になる。


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