「『グローバル化』とは何だったのか?」を掘り下げる。

「 グローバル化とは何か?」から始める

もうグローバル化と聞くだけで、「英語」を思い浮かべてしまいます。

国内の会社でも、業務中の言語を英語にするというケースもあったりして、それだけ我々にとって「英語」はグローバル化の象徴で、国際社会に加わる時の条件になっているのでしょう。

そもそも、グローバル化のことを急に考えたのは理由があって、人にとっての「幸福」をどう見つけられるのかをぼんやりと思っていました。

それを考えた理由は、YouTube のチャンネルでどんなテーマが必要とされるのかを想像したことが発端です。

いずれにしても、グローバル化を英語教育とすぐに結びつけなくて、もっと違うアプローチをしてみたいなと考えました。

世界から見れば小さな島国の日本ですが、新幹線で3時間の距離にある関東と関西でも稀に文化の違いを感じる出来事があります。

その代表的なものがイントネーションで、例えば「アホやなぁ」と関西人が言う時は、相手に低評価を付けているとは限りません。

しかし、関東で相手に「アホか?」と言ったら、一瞬でも険悪なムードになってしまうでしょう。

「アホ」という言葉は同じでも、その言葉にまつわる事柄が違えば、その結果も変わってしまいます。

例えば、ある人はとてもわがままに育ちました。

でもそんな風に育ったのは、その人を育てた両親が一切否定しない教育を与えたからです。

「今、ご飯を食べたい!」

そう言わなければ、その家庭では食事が提供されません。

「それはしたくない!」

「それが好き」

全てに対して、自分で意思表示しなければ、何も事が進まない環境でした。

友だちや知り合いと一緒にいて、なんとなく馴れ合いでレストランに入ることになりました。

でも、その人は「今は食べたくないし、運動はしたい」と言って、みんなの輪から離れてしまいます。

その場にいた人たちは「場の空気が読めない」とか、「わがままな奴」とか、付き合い難い存在に感じました。

そしてある時、みんなの中である人が財布を失くしたと慌てています。

しかし、もう少しで終電で、みんなはどこかで帰りたいと思っていました。

「探そう」と言い出したのは、みんなからわがままと言われた人です。

財布を失くした人は、驚きました。

むしろ、わがままな人は立ち寄ったレストランに戻り、その前に行った店を逆方向に辿っていきます。

「そんなことをしていたら、終電に間に合わなくなる」と呆れて誰かが言いました。

ハッとして失くした人が我に返り、「財布は自分で探すから、みんなもう帰った方がいい」と言ってその場で解散しました。

結果、失くした人とわがままと言われた人二人きりで探すことになったのです。

「悪いからキミも帰った方がいい」

すると「財布を見つけよう」と取り合ってくれません。

この話は架空の作り話です。

でも言いたかったことは、人の評価というものは解釈によって正反対にもなってしまうということ。

普段はマイペースで、どこか付き合い難い人でも、根は一番信頼できる人だったりします。

何でもない時は側にいたのに、少しでも立場が悪くなるとスッと居なくなってしまう人っていたでしょう。

良いか悪いかということではなく、今いる環境では、それぞれが価値観を持って生きていて、結果としてそれぞれの繋がりや距離感が作り上げられたとするなら、グローバル化によって、今とは全く異なる関係性になってしまうのではないかと思ったのです。

つまり、英語教育を受けることで、今の生き方に何かをプラスしても、実はその意味で言うグローバル化にはなっていません。

むしろ、英語を話せるということよりも、これまで住んでいた環境ではない相手と出会い、互いに違いや共通点を探しながら、それぞれの関係性を作り出せたら、その結果がグローバル化ではないかと思うのです。

もちろん、英語を話せることがその関係性を作るのに役立つでしょう。

でも、今いる環境に上乗せする形で、英語を考えても、英語圏で暮らす人たちの生活には近づきません。

「ダメだダメだ」と否定されて育ったら、どうしても知らない間に自己評価は下がってしまうでしょう。

一方で、いつも70点しか取れなくても、「きっと次はもっと頑張れる!」と言われ続けたら、もしかすると大学受験で東大に合格しているかもしれません。

勉強を諦めず、マイペースで続けたことで、結果に結びついたというケースです。

「〇〇でなければいけない」

そんな途中経過での価値観って、どこまで必要でしょうか。

小学生が大人と対等に意見したら変でしょうか。

子どもが子どもらしくないことに、「可愛げがない」と評価するのは疑問にも感じます。

というのは、その人にとっての「幸せ」や「自分がなりたい人」はみんなバラバラでいいからです。

かと言って、無理に孤立する必要性はありません。

競争に負けることも大切です。

なぜなら、負けたら終わりではなくて、勝った人を祝福し、自分は努力して次は勝てるように頑張ってもいいし、自分らしい別の方向に進んでもいいからです。

むしろ苦手なことでも、実際に始めてみると共通の仲間に出会えて、最初は気づかなかった楽しさや面白さをそこで知れたらなら、何もしなかった時よりもより多くのことに出会えました。

自分が好きかは別でも、それが好きという人がいることは知れたはずです。

個性的であってもいいし、みんなと同じでもいい。

さまざまな価値観を認め、でもその中で自分が求める価値観もある。

他人の考え方も尊重するけれど、でも自身にも考えがあって、時には一人でも進んで行きたい。

ある意味、そこまでできたら、もうグローバル化って何だろうとは考え無くなっているはずだ。

でも人は、他人から「よくやった」と言われて、安心できたりする。

「やったらできる」と言われて、ついやった気持ちになってしまう。

でも、それだと今までの価値観と変わらないことになる。

芯があるようで、実は他人からの評価で生きる人になってしまうからだ。

「やったらできる」と言われて、「やってみよう」と行動できたら、そこに大きな一歩がある。

上手く行くか行かないかではなくて、今までにない環境に触れたことで、その新しい反応がまた自分らしいに反映されていく。

グローバル化って何だろうと考えていたら、今回はこんな風に話が進んで行きました。

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