時代の変化がもたらした「働き方」の選択肢
例えばYouTube を運営する場合、今から始める時と5年前とでは成功するパターンに違いがあるはずです。
かつて「IT革命」と呼ばれた社会的に労働事情が大きく変化した時代、ホームページをHTML言語で記述することがスキルとなっていました。
ネット回線も今よりずっと貧弱だったので、画像データのデータサイズを確認することが必須でしたし、動的な演出を施すことにも制限がありました。
とは言え「IT革命」という移行期を迎えていたので、紙に定規で線を引き図表を描いていたことが、Excelを使えば簡単にできるようになったのも、その影響による功績でしょう。
今ではイラストを描くのもレイヤーを駆使して、感覚だけで描ける便利な時代ですが、当時はベタ塗りという均一に同じ濃さの色で塗ることがテクニックで、同じクオリティーのイラストを描くにも必要とされる技能に大きな違いがありました。
つまりそれは、「下積み」と呼ばれる時代がかつてよりも重要ではなく、場合によっては美大などで本格的に絵を学ばなくても自己流でプロになれてしまうのは、社会での受け止め方が変化したこともあるでしょう。
例えば小説家として活躍したいなら、新人賞に類する投稿し、ステップアップするのが一般的です。
しかしプロの小説家にならないつもりなら、ブログに自身の作品を掲載し、それを見てくれた方々と交流することで趣味として行動できます。
そして、広告を掲載することで、小説そのものの価値ではなく、「人が集まること」を使って稼ぐこともできるようになりました。
つまりは、かつてなら選択肢として選べない方法でも、仕事として成立するように時代が変化しています。
「ブランディング」とは?
ある固有のかたまりをブランドとし、それを成長させることで、より大きな存在感を得ることがブランディングですが、以前のように企業だけではなく、個人でも当たり前のように扱うものとされてきました。
競技やコンペのような、何らかの基準で選ばれて存在を示す方法と、個性的で独創性なスタイルで、他にない存在感を築くことでもブランディングは可能です。
より大きな影響をを持つためには、価値に気づいて集まった人材だけでなく、そこにまだ至らない層をいかに巻き込めるかがポイントとされます。
ビックデータと呼ばれる大衆的な嗜好を分析し、より効率的に支持される市場に進む時代もありましたが、多種多様なことを認める社会的風潮からはニッチでよりコアな市場で勝負することも珍しくありません。
なぜなら、かつてほど全体的な嗜好が見出せない時代になり、例えば二極化というようなこだわりある層とコスパ重視の層のような分類で、ブランディングすることが珍しくないからです。
「幻想」とは何か?
ここでいう「幻想」とは、単純に「思い込み」や「期待感」の類いです。
全く同じ商品であっても、企業名や産地など、それを示す言葉によって人は受ける印象が異なります。
つまり、よりイメージしやすい内容にすることで、人はある種の「幻想」を抱き、時にその商品の本来の価値以上のものを見出してくれることがあります。
ある商品のトップフェアを誇る商品と、二番手三番手と言われる商品とで、明白な差がある場合と、「幻想」から覆すことが難しくなってしまったケースとがあって、それだけ一度社会的に浸透した評判は簡単に覆すことができません。
「ブランディング」と「幻想」の共通点
例えば、コロナ禍によって社会構造に大きな制約ができた時代に、かつてなら選択肢に含まれ、又はそれ一択だったというようなケースでも、社会の変化によって二番手、三番手のものが急浮上することがあり得ます。
これは「ブランディング」でも「幻想」でもなく、緊急事態による変化が巻き起こした偶然です。
そして、そのような状況が数年続くと、制限が解除されてもかつてのトップ商品が再び評価されるとは限りません。
なぜなら二番手三番手に甘んじていた商品が、トップフェアに躍り出ることができなかったように、その評価には一種の「幻想」が含まれているからです。
もちろん、トップフェア故の根拠が明白なら、少し時間は掛かるとしても次第に評判を取り戻し、かつて同様の評価を得られるはずです。
逆を言えば、何かのタイミングで「幻想」的に評価されたなら、そのままでは正当に評価されるかつての状況下で下火になることもあるでしょう。
それだけに、「ブランディング」によって「幻想」からさらなる固定化された評価に育てることが必要です。
企業の戦略で耳にするには、経営権の譲渡や会社そのものを売り払ってしまうということです。
特にこの先数年は好調が続きそうで、でも長い目で見た時に成長戦略が難しい場合、経営権そのものをどう売ってしまえるかがポイントになってきます。
これらつまり、「ブランディング」も将来ずっと続くものではなく、より期待感を高めるための演出とも言え、それは「幻想」にも似ています。
「車中泊」は車旅における「幻想」なのか?
住宅と比較して、装備や安全面の観点で、「車中泊」にメリットがあるとは言えません。
都内では近所付き合いも確かに減りましたが、それでも集団であることの安心感は消え去ってはいません。
例えば、その土地に詳しくない人が人気のない山奥で車中泊した場合、安全面に問題が無いのかは、誰にもわかりません。
一夜を過ごして大丈夫だったという判断はできますが、問題は何かトラブルに巻き込まれた時です。
つまり、土地勘のない場所で、しかも助けが期待できない状況下で車中泊する意味を認識していなければ、やはり住宅で夜を過ごすのとは安全面で格段に差があります。
「自由でどこにでも」というイメージを「車中泊」から連想させるのですが、それが「幻想」になっていては注意が必要です。
つまり、キャンピングカーという特化された車両だとしても、宿泊施設を利用するなどして、治安維持に努める対策は不可欠です。
また「車旅」でブランディングを考えるなら、誰もが感じる「自由気ままなイメージ」だけでなく、社会との交流まで具現化できることも大切でしょう。
今年の夏は以前のような活気を取り戻せると期待していましたが、それも怪しくなってきたこの頃なので、まだまだ「車中泊」に対する憧れが続くはずです。
だからこそ、どうブランディングし、車中泊を含む車旅の楽しさをどう演出できるのかが問われそうです。