キャンピングカーは「住まい」なのか?
生きるための「住まい」と、未来を築くための「住まい」は違う。
というのも、究極的には生きるための「住まい」は「寝床」なのです。
家という形をしていなくても、ネットカフェでもそこは「住まい」になり得るし、生きていくための「寝床」となるでしょう。
その広さが、例えば一畳半だとしてもいいはずです。
一方で、未来を築くための「住まい」とは、人生の礎となる場所。
すなわち、いろいろな意味で「ベース」なのです。
住民票もその場所にありますし、水光熱などのインフラもされています。
もしかすると、「家族」の集う場所や、育った「故郷」にもなるでしょう。
そう考えた時に、キャンピングカーは自由に移動しながら、料理や睡眠、団欒を得られるアイテムです。
広い意味では「住まい」の一つと言えるでしょうし、厳密には「住まい」ではないでしょう。
なぜ、そんなことを気にするのか?
単純に「住まい」として帰る場所をキャンピングカーで補えるのか、こみちには理解できないからです。
つまり、住所を置くことができる「住まい」があって、キャンピングカーを「自動車」として楽しむなら理解しやすいのですが、車内で炊飯したりホットプレートで焼き肉しても、10年後も同じように暮らしているとは思えません。
やはり、バイクでの「旅」をして、刺激を受けた部分と孤独や安定の意味も知ったからです。
当たり前の日常は、本当に平凡なので、特別大切なものに感じることもありません。
それに引き換えると、キャンピングカーごとフェリーに乗り、北海道や日本海を走ると、ワクワクします。
それは日常を離れた「自由」を強く感じるからです。
でも、どこかで「帰る場所」も意識するでしょう。
こみちは田舎育ちで、十代の時に都会に出て、それから時々帰郷するとしても、もう幼少期を過ごした町で生活をしたいとは思いません。
そう感じるからこそ、「今の住まい」を特別な場所だと感じていますし、大切にしたいのです。
貴方にとって、キャンピングカーって何でしょうか。
バイクで夜中に家を出て、朝焼けを向けながらも先へと走り続ける体験は、まるで人生の「創世記」を見ているような気持ちです。
そして、完全に朝となり、1日が始まる頃には人々が日常生活を過ごし始めます。
でもバイクで走り続けるこみちは、日常生活とは別の場所にいて、彼らを通じて日常から抜け出したと感じられます。
学生時代、いろんなところへ足を運んでいたのも、そんな体験が心地よかったからです。
でも、キャンピングカーって、あの時に好んだバイクではありません。
「スモールオフィス」なのです。
仕事場で、住まいとかとは異なる「空間」です。
モヤモヤした感情はどこに?
例えば、オフコースやかぐや姫、井上陽水などの昭和ソングを、お気に入りのヘッドホンでしんみりと聴いたりします。
でも目を開けば、テレビが点いていて、お笑い芸人がはしゃいでいたりします。
でも、音楽に集中すると、懐かしさやこみち自身の心の奥の方が温まったりするのです。
その時に感じる空間はとても狭くて、こみち自身を包み込むほどでしょう。
例えば、軽キャンカーの空間でも、音楽を楽しめる環境があるなら心は温まります。
そんな場所って、バイクを走らせている時に感じる空間とは異なります。
結局のところ、こみちの場合、自分の感情をコントロールできる空間が欲しいですね。
その広さは、何畳とかってものではなくて、心地よく音楽を聴けたり、iPad で文章やイラストを思うままに書いていられたらそれで十分なのです。
だから、「キャンピングカーが本当に必要なの?」と聞かれたら、「ホテルや民宿でもいい」と答えるでしょう。
だって、自由に移動することを求めているのではなく、自由を感じたいだけだからです。
キャンピングカーの車内で、米を炊いたり、肉を焼いたりと、キャンピングカー雑誌を見るといろいろ紹介されているのですが、こみちとしてはどうにもピンと来ません。
楽しみたいと思うほど、段々と気持ちにズレを感じます。
今、無くしたくないのは「想像力」ですし、それを具現化できる「iPad 」と「通信回線」がマストアイテムで、他はどうにでもなるように思うのです。
キャンピングカーって「住まい」に代わるでしょうか。
想像に没頭できる才能があれば、住まいと言い切れるかもしれません。
しかし、凡人のこみちは、どこかで日常を求めて「住まい」を探してしまいます。
だからこそ、キャンピングカーだけで生きては行けず、どこか帰れる場所を求めてしまうのです。