「 ドラマチック」な展開とは何か?
一本のコンテンツとして完結させたい時に、起承転結が欠かせない。
言うなれば、順調から窮地に陥り、一発逆転でめでたしと終わる。
映画のシナリオでは、「田舎育ち」とか「不遇」とか、イメージとしてハンデを設定することで、最後の展開までの高低差をつけようとする。
これが最初から英才教育を受けて、勝利が期待され続けての結果だった場合、どうしてもその時点での衝撃さは薄く、コンテンツとしての見応えは弱くなる。
「勝負論」とは何か?
「勝負論」と言っても、言葉の意味は曖昧だ。
でもここでは、勝ち負けに関する意義やその分岐点に着目することで起こり得る物を差したい。
試合で言えば、100%の勝率は予測不可ので、わずかでも勝ち目は残されている。
しかし、試合とは無関係な所で不慮の事故に遭遇し、絶対に勝つだろうと思われる選手が試合を放棄し、不戦勝で勝ったとしても、そこに勝利論のようなものは生まれない。
例えば、格闘技の試合で、リングのコーナーで両選手が組み合ったまま硬直状態になった時に、レフリーが試合を仕切り直しすることがある。
何気ない行為に思えるが、実はここにも勝負論があって、たまたま押し込んでいても加点の対象にならないだけで、押さえ込んでいる選手と押さえ込まれている選手には明確な差がある。
でも、倒して寝技持ち込めないということで、結果的にリスタートされてしまうのは、寝技で不利な選手が倒されないことでリスタートを勝ち取れるアドバンテージにもなる。
つまり、リングでリスタートされるというポイントが、ある選手にはとても有利に働き、ケージではもしかすると戦法そのものを変えなければいけないことも起こり得る。
「ルール」は公平な条件にも思えるが、その内容によっては戦略そのものにまで影響するから勝負論になる。
例えば、試合中ずっとコーナーポストで膠着状態になり、試合が判定になるというルールだったら、チャンピオンはその防衛策として動かないだろう。
言い換えると、挑戦者はそのならないように攻めなければいけない。
例えば日本国内の試合では、割とレフリーがリスタートを入れるシーンを目にするが、海外ではそんな中断はあまり見ない。
理由は簡単で、リングかケージかの違いだろう。
リングでの試合では、「倒されないこと」がとても有利に働き、ケージでは劣勢の印象を受けてしまう。
しかもリングというスタイルでは、両選手を一度引き離してリスタートすることになっているが、例えばこれが抱き合った状態で中央に再開されたら、その後の展開は全く違う。
特に上位選手たちの実力は拮抗していて、ルール次第で勝負論も変わって来る。
以前から気になっていた選手がいて、レフリーによるこのリスタートと謎のバッティングがスルーされたことで勝利を掴んだケースもあった。
言うなれば、レフリーの采配とルール次第で、選手の実力を2割くらいは変えることができてしまう。
それだけ真剣勝負とは言え、ギリギリの部分ではある程度の介入ができてしまう。
主催者側がドラマ性を求めてしまうと
真剣勝負と言いつつも、介入できる余地を知りながら残してしまうのは、ドラマ性に期待しているからではないか。
特にショーとして成立させるためには、観客に感動的なドラマチックを演出したい。
勝者を讃え、敗者に惜しみない拍手を送ることができれば良いのだが、それだけのドラマチックさでは主催者側も不安になる。
当然、人気のある選手に勝って欲しいし、過去の実績ある選手でその目論みを理解してくれるなら願ってもないことだろう。
プロスポーツというスタイルである以上、それこそアマチュアスポーツのオリンピックとはベースも違って不思議はない。
「強制する意図はありません。ただ、こちら側としては立ち技で魅了したいと考えているので、その方向性を理解してくれる方を探しています」
例えばこんな風に試合の参加者に主催者側から提案されたら、どう思うだろうか。
戦略として立ち技も寝技も得意な選手でも、依頼されたニュアンスをくみ取り、主体は立ち技にしないだろうか。
これがアマチュアスポーツなら、ゴリゴリに寝技で攻めるだろう。
言うなれば、選手同士は知らなくても、ドラマ性を求めると交渉段階でこんなやり取りがあっても不思議ではない。
書面にも出ない雑談中の文言なので、全くの強制力もない。
しかし、試合の依頼を待つ選手であれば、どうしても気にしてしまう部分ではあるだろう。
仮に無視して勝ったとしても、次は呼ばれないかもしれない。
程度問題として、こんな介入があるとするなら、それが1%の団体と99%の団体で客は違いを感じるだろうか。
つまり、どこかで意図的なドラマ性を織り込んでしまうと、見方によって不自然に感じる部分が露呈してしまう。
言い換えると、国内団体で活躍していても、容易に海外団体へと移籍しないのは、そんなしがらみも皆無とは言えないだろう。
なぜなら、完全なる公平性が求められるのはアマチュアスポーツであって、プロスポーツは公平なルールに乗っ取り、最終的には客を感動し、チケット代以上の満足感を与えることにあるからだ。