昔の「日本一周」は
以前にも触れたが、バイクや車での日本一周は冒険という範疇ではないだろう。
実際、こみち自身もバイクで各地を巡った経験があるが、その時に「日本は小さい」と感じたことを覚えている。
もちろん、「大きさ」というのはスケール感に影響され、飛行機なら1時間で東京から北海道まで行けるし、徒歩で移動するとそれは数キロに過ぎない。
それだけ、どんな方法で移動するのかがポイントになってくる。
確かに、生まれ育った田舎町にいた頃、東京は大都会で、キラキラと輝いている場所だと憧れた。
でも、実際に東京を肌で触れれば、全てが一様にキラキラとしている訳ではなくて、いろんな輝き方をしていると気づく。
その意味では、「世界」とか「宇宙」が、当時の「東京」で、「日本一周」もまた異なったものに思える。
ドラマチックな「東京」!?
「東京」の他、「北海道」や「沖縄」、「瀬戸内」など、活字として目に触れた時に感じる潜在的なイメージが浮かびやすい所がある。
実際に、小説やドラマのストーリーを考えなら、そんな特徴的な「舞台」は外せないだろう。
一方で、特に地理的にも平凡な舞台をどう扱えばいいだろうか。
広いとも狭いとも言いづらく、山とも海とも言えなくて、都会的でも田舎町でもない場所は、舞台にならないのだろうか。
実はそんなことはなくて、ドラマにも病院内の医師や看護師が登場するなど、その地域性があまり重要ではない設定のストーリーも少なくない。
なぜなら、ストーリーを作るドラマに大切なのは、地域性以上に登場人物だから。
つまり、登場人物の全員が高身長でも、画面的には特徴となりづらい。
だから、背が高い人もそうでない人も、痩せた人もそうでない人も、メガネや髪型もいろんなバランスを組み合わせることで、全体として多彩でまとまってくる。
昔の小学生が作文を書く時に、「7時に起きました」から始まって、夜寝るまでのことを延々と綴ってしまうのはストーリーとして「時間軸」しか思いつかないから。
そこで一般には「起承転結」を作るように指導される。
冒頭は、目を見開いた瞬間の情景。
そしてしばらく眺めている時の継続。
さらに突然の変化。
そしてどうなってしまったのか。
言えば、一本のストーリーでそれが構成されている訳ではなくて、それこそワンシーン部分にも「起承転結」が隠されているし、多くの場合には人間の行動に見られる衝動とも言える。
スーパーマーケットに来た自分。
店内に入ると、多くの客がいることに気づく。
そして、横切る誰か。
「アレは、あの時の!」
声を掛けるのか、後ろ姿を見つめるのか、それとも急いで立ち去るのか。
言うなれば、無意識のうちに、ワンシーン毎にそんな作業を繰り返して、全体としてストーリーが出来上がる。
つまり、「東京」だからドラマになるのではなくて、起承転結のどこに組み込むのかがポイントだということ。
現代における「日本一周」とは?
結論を先に言ってしまうと、もう「日本一周」という昔からの意味は失われてしまった。
つまり、現代における「日本一周」とは、我々が使っているSNSなどのメディアそのもので、もはや誰かが日本をぐるっとめぐる姿に冒険や夢が乗せられている訳ではない。
車を使えば、都道府県をめぐるだけなら一ヶ月でも達成できる。
それも「日本一周」になる。
でも、そんな短期間での移動では、移動することが目的になり、その地域を感じることまで意識が向かない。
かと言って、一ヶ所ごとに一年掛けて巡れば良いのかということだろう。
そうではなくて、現代では国内にとどまらず、世界中に住んでいる人が発信できる。
それを見ていることが、広い意味での旅になった。
つまり、順序よく巡ることそのものに価値が見出せなくなってしまった。
車旅という視点で、これまでも「日本一周」をどう理解すればいいのか悩んできたが、どうやら昔とはいろいろと変化してしまったのだろう。
かつてのような方法を用いるなら「世界一周」や「宇宙旅行」で、車旅として全国を巡ることそのものに、特別感はないのかもしれない。