「真実」とは何か?
少しマニアックな話をすると、三島由紀夫氏の「鏡子の家」という小説を読んだことがあるだろうか。
こみち的に内容を紹介すると「真理」とか「絶対性」の有無を扱った作品だと思う。
誤解を恐れずに言えば、「スタートとゴール」がある人生は、それをトレースすれば良い。
迷ったら、その「線」とのズレを見返して、修正するだけだ。
別の話をすると、ゴルフでスコアを伸ばすためには、ラウンド(プレーすること)を重ねることに尽きる。
つまり実践あるのみということだ。
しかし、その途中でスランプが起こり、成長が停滞する時期を迎える。
その時に、「理想的なスイング」が確立している選手は、そのズレを比較しながら修正していく。
一方でこみちのような趣味で楽しむ場合、スイングも自己流だったりする。
結果的に真っ直ぐ飛ぶ打ち方を心がけているだけだから、何かズレてもどこが変わったのかがわからない。
時にはそれまでの経験を白紙にして一から作り直すことになる。
つまり、それだけ「理想」が分かっていれば、それを指針にことを進めるのは楽なのだ。
つまりその理想が「真実」になる。
しかし、残念ながら「真実」が存在するのかは、「絶対性」を肯定するか否定するかによる。
ある人が歩いている。
なぜか?
その理由を、用事があったとか、身体的に歩ける機能を持っていたとか、はたまた誰かに呼び出されたとか、歩くに至った背景を考えたとしよう。
その時に、100%の背景となるものを言い当てられるのかがポイントだ。
なぜならそれが「絶対的」を肯定し、「真実」が存在することの証明になるからだ。
ところが、真実があっても、本人はそう思っていないこともある。
誰がどの時点で真実を理解していればいいのか。
そんな風に考えると、もう真実があるのかないのかもわからない。
少なくとも三島由紀夫氏が小説内で伝えてくれたことは、真実の存在を最後まで追い求めなかった郷子だけが今までの生活に戻れたということだ。
学生時代にそれを読み終えて、その結論に激しく否定し、落胆もした。
なぜなら「真実」を否定すると言うことは、目的や目標が誰からの価値に過ぎないことを認めなければいけない。
この事実が教えてくれることは、「わかってもらえる」を意識して行動しなければ、たとえそれが絶対的には正しくとも価値は見出せないことになる。
ある困難に直接した時に、その解決策を考えるだけでは不十分で、解決に至るために社会や周りの人の反応も気にしながら、段階的に進めることが求められる。
二度手間、三度手間だと思う時でも、時には理解を得るためには、刻んで行くことも必要になる。
一から十まで説明しなくても、その意図を理解できる人もいるが、一つずつ説明しても理解しない人もいる。
それは見ている箇所が異なるからで、相手の立場や状況をイメージできるとは限らないということ。