昨今、「総合格闘技」が流行っていたけれど
人間の肉体的な「強さ」を競うスポーツといえば、格闘技が挙げられる。
とは言え、相撲や柔道、ボクシング、空手、レスリングなど、同じ格闘技と言ってもその競う内容は同じではない。
一方で、「総合格闘技」は、立技、寝技など、それこそ様々な格闘技の要素を総合的に求めるスポーツだ。
最近の流れとして元空手家や元柔道家など、従来の種目に取り組んで来た選手たちが総合格闘技へと進出するケースが目立つ。
興味深いのは、喧嘩好きな人が格闘技と通じてスポーツの世界に参入しているケースだ。
例えばボクシングの世界戦などは、3分を一クールとして12回、延べ36分も戦う。
全力で力を発揮できるのが数分と考えれば、ボクシングという競技はどれだけ体力を温存させて、効果的に攻防しなければいけないのか分かる。
例えば喧嘩が強くて、街中で揉めた時、実際の喧嘩が始まるまでに駆け引きがある。
見た目や服装、雰囲気なども要素となって、だからこそ始まるまでの駆け引きが重要だ。
一方で、多くの格闘技は、試合として戦うところから始まる。
つまり、どれだけ始める前に威嚇しても、それだけで治まるということがない。
実際に試合が開始されれば、競技のルールに応じて持てる技をで勝負することでしか「勝利」は見込めない。
当たり前のことだが、格闘技に限らず、どんなことでも「様になる」までに練習が不可欠だ。
拳を突き出す技「パンチ」を取っても、強打を繰り出すための身体の動き、相手との距離や位置、タイミング、さらにそのパンチそのものの精度まで含めると、「技」を磨かなければ思うように効果を発揮できない。
先天的にある程度のセンスがあって、一般的な人よりも優れている人もいる。
しかし、「強打」なら「強打」、「距離感」なら「距離感」、それぞれの分野を徹底的に磨き上げた相手と向き合えば、その領域で勝ち目は薄い。
なぜなら、そのポイントに気づいて、四六時中鍛錬した人には敵わないからだ。
もちろん、例えばルールで「3ラウンドしかしない」とか、「体重は〇〇キロまで」というように競技として制限を設けることで、より自身のパフォーマンスを温存しつつ、相手選手の得意を封じることができる。
「ルールだから公平」と考えがちだが、その「ルール」を味方につけることで、勝率を上げられる。
ボクシングの場合、まだ身体が成長期の若い選手などは、軽い階級で挑戦し、段々と重い階級へとステップアップさせることがある。
適切な階級は骨格の大きさがベースにあるから、成長期の場合、急にその階級を維持することが困難になる。
相対的に重い体重になる程、パワーはアップする。
そしてスピードは逆にダウンして行く。
競技者として、パワーを活かして戦う選手はより重い階級に上げても通用するが、逆にスピードで上回って来た選手は階級を上げてスピードが落ちてしまうと思うように戦えなくなることも多い。
パンチ力の強さで勝って来た選手が、階級を上げて戦い方を変え、防御や距離感など、それまでとは異なるスタイルを作り上げるのは、自身のパフォーマンスを階級に適応させたからだろう。
ボクシングの場合、一発でダウンさせるKOも魅力的だが、長いラウンドを通じて攻防戦が繰り広げられる中に魅力がある。
そして、パンチという限られた戦術にすることで生まれる両選手の知恵が見る者を熱くさせる。
昨今人気の総合格闘技でも、試合開始は立技からで、選手によってはそのまま打撃で上回ろうとするが、柔道家などは組み手を模索するし、柔術家なら早く寝技に持ち込もうと策を練る。
ボクシングと総合格闘技を比較して、総合格闘技がすべてを網羅しているから「より強い」種目だと考えるべきではない。
なぜなら、競技として考えた時に、観たいのは「攻防の妙」で、タイプの異なる選手がより優位なポジション取りをどう試合で見せるのかだからだ。
「打撃では勝ち目がない」となった時に、「組み手」という選択肢が総合格闘技にはあって、ボクシングの場合には「距離感」や「リズム感」で応戦する。
方法こそ異なるが、「勝ち目」がない中で何を見せて勝利を引き込むのかの攻防戦が面白い。
強いと思えたボクサーが、別の選手の前では全く光って見えないことがある。
理由は単純で、強いと見えた良さを、相手選手が封じたからだ。
そうなった時こそ、どうそうから打破できるのかを練習しなければいけない。
強打だけで勝ち上がれるのか、耐久力でジリジリ攻めるのか、ボクシングにはそんな工夫が見られるから面白い。