人はどれだけ「純粋」なのか?
例えば、「何か大きな失敗をしてしまったら、もう人生は終わりなのか?」ということ。
前提として現実のことではなく、思考という範囲で話すとしたら、「割り切り」や「切り離し」が許されるべきだと思う。
仮に、それらを否定した時に何が起こるのかというと、「人格崩壊」だ。
処理できない程の大きな問題を抱えた時に、そこに向き合うには大きな努力と気力が伴う。
理解しようと頭をフル回転させることも必要だ。
しかし、それらを経て、困難を乗り越えられるなら、人生経験として「学び」にすればいい。
でももし、とても抱えきれない程の障壁なら、乗り越えるではなく、避けて通るという選択肢もあっていい。
中高年と呼ばれる年代になって感じるのは、日常生活で起こる大半のことは繰り返しに過ぎない。
そしてわずかな変化が、人生の刺激となり、生きている価値を見出すポイントだ。
十代の頃、人並みに人を好きになって、今何をしているだろうかと想像し、何かソワソワして、嬉しくなって、でもすべてを知っている訳でもなくて。
恋はとても切なく刺激的に見える。
中高年になって恋をするだろうか。
綺麗な人。かっこいい人。
そんな風に感じることはあっても、例えばその人と一緒に暮らして、家庭というものを築き、一年一年を繰り返しながら、互いの魅力にまた気づいたりもして、気づけば白髪もでたりして。
ふと、「その先は?」と考えてしまう。
こみちは既婚者だし、長く連れ添った妻がいて、ある意味そんな風に今まで生きて来た。
きっとこれからもどちらが迎えが来ない限り、一緒の時間を重ねていけるだろう。
だから、例えば魅力的な女性を見つけて、その人の声を聞いて、話もして、さらに魅せられたとして、その先に二人にとって何が待っているだろうか。
面白いもので、「一生現役」と自負される方を否定はしないが、現実的を振り返ればもうそんな展開は遅すぎる話だ。
一回、二回。何度だとしても、その先は見えない。
これが独身同士なら、年齢差や国籍さえも関係ないし、むしろ自分から制限を掛ける意味もない。
でも既婚者なら、恋ではなく愛だろう。
ここでいう愛とは、一瞬の感情ではなく、一生を掛けて叶える想いだ。
さてさて、「旅」の話に戻ろう。
こみちは元々バイクが好きで、若い頃はとにかく時間を見つけてはツーリングに出掛けた。
まるで地図の上を指でなぞるくらいの勢いで、全国を気が済むまで走っていた。
同じ道でも飽きることがない。何度も訪れた街に帰って来れば、何か懐かしい気分にもなった。
何より、行く先々に人が暮らしていて、時にはその街で生まれてずっと住み続けている人もいるだろう。
たまたま出会い話した相手が、生涯、バイクで旅をしている人と会ったことを覚えてくれていたら、それは凄いことだ。
こみち自身も顔はすっかり忘れてしまったが、いくつもエピソードはあって、それは実際に走ったからこそ手に入れられた思い出だ。
じゃ、「旅」ってなんだろう。
旅をする目的とは?
例えば、インスタントラーメンを食べたとしよう。
家に誰も居ないから、簡単な昼食のつもりで作って食べた。
そんな記憶が一生の記憶として残されるだろうか。
一方、旅先のキャンプ場で、寒い朝、ブルブルと震えながら作ったラーメンの思い出は、味こそ忘れても情景くらいは残っているかもしれない。
旅って、日常生活ではもう満たされた一つ一つのことを、一度バラバラにして、原点に戻るようなものではないだろうか。
暑いも寒いも感じないくらい快適な家では、空調の有り難さすら意識しないし、思い出にもなりはしない。
でもキャンプ中なら、暑い寒いはすぐに手に入るし、その度に洋服を脱いだり着たりしている。
見過ごしていた「小さな幸せ」を探すことがきっと「旅」なのだろう。
最初はオシャレなキャンプ道具に関心を持って、でも段々とシンプルでも「小さな幸せ」が見える動画に人は魅せられて集まる。
その意味では、見た目の派手さは即効性が期待できるけれど、長く続くのはもっとシンプルなものだろう。
食事だってそうだし、着る物だって同じ。
刺激的な要素は目を惹きけれど、最終的には選ばないし、選ばれない。
思うのだけれど、例えば「車旅」のチャンネルを運営したいなら、最初にキャンピングカーを用意しなければいけないと思い込み必要はなかった。
例えば10年落ちの中古車で、ヨタヨタと走っていても、そこに幸せの発見が有ればいい。
高級な車だから幸せという人ばかりではないし、たとえば愛車は数億円するとしても、サラッとお茶漬けで済ませたい時もあるだろう。
車旅に限らず、旅をするなら何をしなければいけないのか分かった気がする。
「この旅を楽しもう」
シンプルにそれが必要なのだ。