「正論」とか「論破」って何だ?
例えば、目の前に広大な土地が広がっていて、その場所を「どう開拓すればいいのか?」と議論が始まったとします。
あえて、「正論」が方法は別としても「開拓」に紐付けられた案を掲げたとしましょう。
一方、「論破」側は、「開拓」の内容や意図、目的にどれだけ意味があるのか、過去の事例や未来予測を含めて、さまざまな角度から「開拓案」を無価値にしようと動きます。
ところが、「現実」というものは呆気なくて、年齢や資金、気持ちなどが変わってしまえば、どんなに正論でも論破された主張でも、意味を持ちません。
先の例で言えば、広がっていた土地が別の誰かのものだったなら、開拓の意味もそれを否定する理由も見失います。
本当の意味での「正論」とは何か?
つまり、議論としての正論ではなく、生きる中での正論を考えるべきです。
例えば、時給1000円で雇われたからこそ、働けば給料をもらえます。
これが、雇われる前にどんなに頑張ったとしても、雇われる前の部分は報酬の対象外です。
この一例でだけでピンと来た人はもうこの先を読んでも意味がないかもしれません。
しかし、「何を言っているの?」と思ってくれた方は、もう少し読み進めてください。
これから「日本一周の旅に出て、自分は旅人として暮らして行く!」と夢を描いたとします。
そのために3年間、稼げるバイトで懸命に貯金したという人もいるでしょう。
昔、世界でバイク旅をされていた方で、1000万円を宅配業で貯めたという強者がいましたね。
また、YouTube を活用して広告収入を得ながらという人もいるでしょう。
今回の「正論」という話に限れば、「旅に出ようと決意したこと」部分ではなく、「旅にどんな価値を求めるのか?」が「正論」です。
つまり、こみちが思う「正論」とは、「それ抜きでは解決しないポイント」ということです。
先の例を持ち出すなら、土地の開拓に「正しい答え」などあり得ません。
オフィスビル街を作り、途轍もない稼げる街をつくったとしても、それが何の意味や価値になるのか見えなければ、開拓は失敗です。
住み良い街を作っても、防犯対策や、身元の制限を加えることに問題は無いのかと議論は広がります。
つまり、100%とか絶対などは存在しません。
もしも存在するとしたら、条件や状況をしっかりと制限することです。
旅人になるための「正論」を探そう!
例えば、「山登り」という「旅」をイメージしたのなら、登山用品のレビューを動画にできないでしょうか。
しかも、メーカーや販売店に商品を提供してもらい、宣伝も兼ねてレビューを行うという流れを作れれば、それは資金無くしてすぐに実行できます。
つまり、ここでの「正論」は旅の行き先をあれこれ思案している段階ではなく、実際にスポンサーを探す行動に移った時です。
もちろんメーカーへの配慮を心配しているなら、「旅の面白さ」「山登りの楽しさ」を伝える支援をしてもらえないかと交渉することはできるでしょう。
もちろん、それが唯一の「正論」ではありません。
しかし、スポンサー集めをすることができれば、夢を叶えることもできてしまいます。
スポンサー集めをするための「正論」は、「旅」をどう捉えて叶えたいのかを自分なりにまとめて、相手に伝わる形に整えること。
方法や手段はそれぞれ自由ですが、話を聞いてくれた時にスポンサーになって支援したいと思ってもらえないと、それは失敗だったということです。
つまり、同じ悩むにしても、「正論」で悩むことは意味があります。
しかし、まだ起きてもいない時点や、1%の確率まで想定してしまうと、次の一歩さえも出せません。
「何かをしたい」それができない理由が自分の気持ちだけでは解決できないなら、その問題の「正論」となっている部分を考えてみることでしょう。
そもそも今の環境ではできないということもあります。
だとしたら、そのままで悩んでも解決はできません。
そんな風に意識を変えてみると、何か気づくことがあるのではないかとこみちも悩んでいます。