雇われることから脱却するために
キャンピングカーを「自由」の象徴として捉えた時、例えば日本全国を車旅しながら暮らしたいと思ったりします。
しかし、現実的なこと目を向ければ、一般的な住宅だからこその安全や暮らし安さにも気付かされます。
都心部ではその関係性も希薄になったと言われる「ご近所付き合い」も、突然の事故や病いなどに見舞われた時、心強く感じることでしょう。
まして、昔からよく知っている長い付き合いともなれば、しばらく顔が見えないからと様子を確認してくれるかもしれません。
そんなことを考えるようになったのは、こみちが介護士として介護施設で働くようになり、そこに暮らす高齢者や訪ねて来る家族の様子を見て、社会と個人との繋がりを意識するようになったからでしょう。
どこかの会社に雇ってもらい、その会社が求める業務を担うことで、代わりに対価を得ることが仕事だと呼ぶのなら、その「雇われること」から脱却するには何が必要になるのでしょうか。
その時に行き着くのは「自分の存在意義や価値」を見直すことかもしれません。
そんなことを思うと、今までは資格やスキルといった方面ばかりに意識を向けてきましたが、実は「そこに居る」というただ存在するだけであったとしても、その価値は小さなものではありません。
これも介護関係の話になりますが、日常生活の大半を自分でこなしている高齢者だったとしても、週に一回とか、1日30分だけと言うようなものだとしても、介護士や地域の住民が声掛けをして、たわいない会話をしてくれたとしたら、それだけでも「生きる」を肌で実感できるからです。
そして、介護士としての経験を踏まえるなら、「何かをしてあげること」ばかりが求められることではなく、時には「何かをしてもらう」とか、「ただそこに居るだけ」という関係こそに人は価値を見出します。
もう勘の鋭い人ならお気づきかもしれませんが、「会社に行く」「決まった時間に家を出る」ということが持っている価値はそれだけ大きな意味を持っていて、時間にも場所にも捉われない働き方を手に入れることの意味を改めて感じることでしょう。
つまり、存在価値を極力減らして、人間関係さえも希薄にした、例えば「何かを納品するだけ」のような仕事を目指すなら、それなりの準備が必要です。
職種としては、ライターや作家のような文字を扱う仕事、デザインやプログラムなどのデータとして納品できる仕事、税理士や建築家のような専門家で、アドバイスなどでも対価に結びつけられる仕事などは、比較的簡単に時間や場所に束縛されないでしょう。
一方、介護士や美容師、医師のような人に接しなければ行えない仕事の場合、決められた時間や場所に居ることがとても重要視されます。
現役世代の時に老後の生活まで考える!?
例えば20歳から60歳までの期間、約40年を現役世代と呼ぶのなら、その期間でできた貯蓄額で、60歳から命尽きるまでの期間を生きなければいけません。
仮に100歳まで生きるとしたら、それこそその期間は現役世代と同じ40年になり、現役世代で稼ぐことができた半分の収入は老後の蓄えに回すことになります。
実際、若い世代の収入額は中高年世代と比較して金額が抑えられていたり、中高年になっても年齢と同額の収入に届かないケースも多く、まして子育てや教育費、住宅ローンと重なれば、到底、望んでいるような金額を残してはいけないでしょう。
今の現役世代が老後を迎えた時にどれくらいの年金額になるのかは熟知していませんが、今の高齢者では会社勤めしていた人で月額換算12万円から15万円くらいもらっていると聞きます。
そこから家賃を捻出するとなると、食費などの生活費も決して裕福には暮らせるないかもしれませんが、それでも「生きる」には十分な金額と言えるでしょう。
まして、我々中高年世代やもっと若い世代になれば、日本の人口が減少している以上、税収が増加するとは考え難いだけに、今以上に質素な生活と老後になってからも働ける仕事や健康管理が不可欠です。
ずっと眺めていられる景色を前に
例えば、キャンピングカーを購入するきっかけとして、全国各地に残された風光明媚な場所に出向き、時間を気にすることなく景色を満足できるまで眺めていたい人もいたでしょう。
実際にその場所に居ることがどれだけ価値あるものかは先に触れましたが、例えば今ならスマホやパソコンを介して世界各地のライブ映像を眺めることができます。
それでは「自由ではない!」という指摘もありそうですが、インターネット回線が普及し、誰もがどこでも生きられると想像した一方で、誰もが今までの日常生活を維持しながら、「いつでも世界各地を眺めることができる」ようになったとも言えます。
何よりも、視覚や皮膚感覚で満足感を得る人には「現地」という価値が強く残り、脳内で再構築させる人であればその場に居ること以上にその場の雰囲気を感じることに趣をおくことでしょう。
というのも、キャンピングカーに乗って、例えば5年を費やして全国各地を巡ったことで得られる様々な体験と、インターネットをフルに活用して時間や場所を逆に超えて得られる体験とではどちらにより大きな感動が得られるでしょうか。
もちろん、その答えは個人によっても異なりますし、キャンピングカーでの気ままな生活に強く憧れる人と、これまでの多くの人が営んで来たように「住処」を構えて、休日に旅や旅行をし、またはレストランで食事をするという生活を求める人がいることでしょう。
場所に縛られるイメージの介護士も
例えば、介護士なら当たり前にできる食事の世話やトイレの世話、お風呂の世話など、多岐にわたる業務をマスターしていれば、それこそ人の暮らしはどこでも似ているので、全国各地の介護施設をそれこそ1ヶ月とかの短期間で働かせてもらいながら、めぐることもできるかもしれません。
高齢者が懐かしいと感じる歌をギターの弾き語りで歌うことができれば、とても喜んでくれることでしょう。
また、夜勤のスタッフがいない時に、代わりに入ってあげることができれば、それはかなり介護施設としても嬉しいはずです。
つまり、先に紹介した割と自由度の高い仕事もそうでない仕事も、根底にあるものは同じで、「自由」に対する解釈次第で、できないこともできるようになるはずですし、できないにはできない理由や原因がありそうです。
例えば、介護士という仕事を始め前から、いつかは「全国各地を旅した」と夢を掲げ、3年なら3年、5年なら5年という期間で懸命に仕事を覚えてしまえば、自ずと次の展開が可能になります。
しかし、「これくらいでいいだろう」と自身でブレーキをかけてしまえば、いつまでもそのステージから抜け出せません。
生まれながらに才能を与えられた人ではないこみちのような凡人でも、数年間の下積みを経ることで、そこを足掛かりに進むことはできるはずです。
どんな仕事でも、求められることにはどこか共通点があって、そこを担えればニーズが生まれます。
逆に誰もが興味や関心を持つ部分は、自分ではない人の方が適任だったりして、そこを追いかけても芽が出ないかもしれません。
そんな意識を持って今の仕事に取り組んでみると、過去に評判の良かったことはやはり今でも評価され、過去に思ったほどの反響が得られない部分は今でも同じだったりします。
つまり、早い人で20歳、遅い人でも30歳半ばまでに、今世で経験することになる体験の大半と遭遇しているはずです。
それはつまり、その年齢を過ぎた後は、同じ経験を2度も3度も繰り返し、そして同じような対処を繰り返したことで同じ結果を招いてしまったとも言えます。
初めての時は緊張することもありますが、2回目、3回目となるにつれて、どこでその本質に気づいて対処できたかで、有意義な二十代や三十代にできるのでしょうし、こみちのように中高年になってようやくその本質に気がつき、改めて取り組み始めたという人もいるでしょう。
できない理由は必ずあると思います。
あまりにできないが続くようなら、その対処方法が間違えているのかもしれません。
なぜ、自由に生きることができないのか。
その答えは、限られた人にしか与えられないものではなく、その方向に進んでいないからとも言えるでしょう。