世界は有限である!?

 もしも世界が有限の空間なら

例えば「愛とは何か?」を問われた時に、「相手を思い愛すること」と誰かが答えたとしよう。

明らかな間違いではないものの、「別の人ならもっと相手を深く愛せるかもしれない」という疑念も浮かぶ。

つまり、「私」という主人公を主体に考えるから「愛すること」を考えるのであって、別の誰かがもっと深く愛せるなら、相手にとっては「私」ではなく別の誰かの方が相応しい。

好きな誰かを愛するからこそ、自分ではない誰かに「託すこと」も賢明で深い愛ではないかと言えないだろうか。

別の話をすると、ここ数年前から国内でも「総合格闘技」ブームが続いている。

「総合格闘技」というスポーツをあまり詳しく知らない方に、俄かファンのこみちが紹介すると、殴ることで攻撃する「ボクシング」、組み合って投げ飛ばす「柔道」、タックルして倒す「レスリング」、関節を固める「柔術」と分類した時に、総合格闘技はそれらを含む幅広い要素が取り入れられたスポーツと言えるだろう。

それだけに、ボクサーだった人や、柔道経験者などが総合格闘技の世界へ飛び込んでくるケースも増えている。

ここで触れたいのは、「総合格闘技」の技術的な話ではない。

「総合格闘技が強いとは何か?」の話である。

先ず前提として、人はコロナウイルスを克服できないし、自然災害や老化のメカニズムも完全には理解できていない。

我々が知らないことの多くが未知であり、知っていることの方が少ないかもしれない。

もしもそうだとしたら、「格闘技が強いとはどういうことか?」に行き着く。

これはとても興味深いことで、総合格闘技よりもボクシングが世界的なエンタテイメントになっているのは、単純に「強い」ということだけではなく、限られたルールの中で卓越した技術や技、経験を活かした攻防が観る者を熱くするからだろう。

では、総合格闘技がボクシングよりも熱くないのかというとそうとも限らない。

むしろ、ここ数年の国内での総合格闘技ブームは「ライジン」などの大会もあって白熱している。

しかし、海外で行われている総合格闘技と国内での試合を見比べた時に感じるのは、「選手のポテンシャル」の違いではないだろうか。

人によってその上達度合いは異なるが、「プロ」と呼ばれる選手の凄さは、上達で到達したレベルよりも、さらに数段上にいるからだろう。

つまり、生まれ持った資質で上手い選手がいても、その勝ち方に技が感じされないと観ていても胸が熱くならない。

それは単純に勝敗だけではなく、試合の流れも楽しみたいからである。

エンタテイメントという興行として見た時の総合格闘技は、観客をどれだけ熱く楽しませられるかに掛かっている。

試合でそれを見せ、リングの外でも饒舌に語り盛り上げることに長けた選手がいるのも、スポーツとはいえ、エンタテイメントという意識の現れだろう。

しかし、先にも言ったことだが、人間の強さには限界があって、人間同士で比べればそこに強さの差も出てくるが、外の世界と比べれば勝てない相手や状況の方がずっと多い。

その中での「最強」を決めているのがスポーツであり格闘技なのだ。

これはスポーツや格闘技を否定しているのではなく、そもそも「世界とは有限である」という仮説を検証している過程に過ぎない。

まして「ケンカが強い」という話になれば、総合格闘技以上にルールに縛られないから、「強い」とは向かい合った時にだけで計れるものとは限らない。

なぜなら、「ケンカ」と言っても、殴る蹴るという物理的な部分だけでなく、裁判のように法律を使い刑罰や罰金という形で勝敗を決めることもある。

社会では企業同士が戦略を練り、サービスや商品開発の部分で凌ぎを削っている。

負ければ業績を落とし、時には企業が買収され経営陣が去って行くこともある。

例えば、高齢になると増える認知症も、脳の神経が変性して起こることもあるが、脳の血管が切れたり、外傷によって損傷し、日常生活に支障が生じることも起こり得る。

総合格闘技のチャンピオンになった人を素晴らしい選手と称える一方で、彼の老後に認知症が起こらないことを願うしかない。

こればかりは運命としか言いようがないし、頭部にダメージを受けているスポーツ故に、一般人よりも危険リスクは高くなるだろう。

こみちは介護士として働いているから、脳の障害から意識失い、痙攣や無反応の利用者の世話もして来た。

初めて見た時は怯むほど「人間」には思えなかったし、でも彼らの元気な頃も知っているからこそケアもできた。

「どんなに変わってしまっても私は私だから」

一言一句間違えていない訳ではないが、ある腎疾患の利用者から言われた言葉を思い出す。

腎臓という臓器は、からだに溜まった毒素を尿から出す役目を担っているから、その機能が低下するとからだに毒素が回り続け、それは脳細胞さえも犯してしまう。

脳が破壊されると、思慮の分別や記憶、計算が難しくなり、親しい相手を見ても分からないばかりか、「人間」を認識することも怪しいほど眼球が激しく震えていたりする。

それだって、肉体に起こる症状で、精神世界ではまた別の問題が起こり得る。

話を「愛」戻すなら、「ラブソング」の歌詞で使われる「永遠」とか「ずっと」という言葉も、有限の世界に存在した「概念」ではないのかと思ってしまう。

ずっと二人で愛し合おうと誓っても、どちらかが病に倒れることはあるし、突然の事故に見舞われないとも限らない。

不倫や浮気、戦争や争いが無くならないのは、有限の世界で生きる人間だからではないだろうか。

もしも無限の世界があって、これまでの常識や価値観を超越できた発見ができたなら、これまで起こったような自然災害も防ぐことができるだろう。

言い方を変えれば、30%理解した人も40%理解した人も暮らしていて、時に41%理解した人が何か新しい偉大な発見をする。

しかし、それだって未知の59%を残した発見でしかない。

では、「最強」とはどれほど強いのか?

それは他者よりも少しだけルールに合致したからだろう。

なぜそんなに自分は弱い人間なのか?

それは、弱い部分ばかりを見ているからではないか。

そもそも自然の脅威を超越できる強い人間などいない。

所詮は有限の世界で生きる生き物で、そんなに差があるほどの違いなどないはずだ。

でも人間社会はルールによって作られた世界だから、そのルールに沿った人ほど評価されるようにできている。

そのルールが合わないなら、他人と距離を置いて生きればいい。

それでも自然の中にいる存在で、だからこそ守るべき大きな意味でのルールはあることに変わりはないけれど。


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