能登半島を走る「のと鉄道」の話
こみちにとって日本海側はとても思い出深い。
初めてバイクで東京から国道20号線を進み、山梨県、長野県を抜けて日本海へと抜けたのは、もう20年近く昔のことだ。
太平洋側と日本海側、日本が狭いとは言え、はっきりと気候の違いを感じ取れるし、日本海の海を見た時も、何か感慨深いものがあった。
能登半島にも足を伸ばした。
国道8号線で富山県内に入り、国道160号で七尾市に向かい、249号へと乗り継いだ。
当時は今のようにスマホなくて、自分がどこを走っているのかはリアルタイムでは分からない。
昭文社が出版している「スーパーマップル関東道路地図」を一冊カバンに忍ばせて、行き先に迷う度にバイクを道端に止めては方角を確かめた。
確か、この辺りはエリアにギリギリ入っていたか、いなかったかで、そんな時は地元の人に話し掛けたり、コンビニがあれば地図を借りて進路を調べた。
自分がどこにいるのかを理解できていてば、人は驚くほど安心感を得られる。
しかし、段々と情報量が減り、目的地までの距離や道のりも分からないままで進むのは不安も多い。
特に山間部を夕暮れどきに進む時はなおさらで、通行人もほとんど見かけ無いし、何よりこの先で良いのかも確かめられない。
ドキュメント72時間で放送されたのは、能登半島にあるのと鉄道「能登鹿島駅」。
この駅は無人駅で、普段はとても静かな駅らしい。
しかし、さくらが咲く時期になると、地元の人だけでなく、県内外から見物客が集まると言うのだ。
もちろん、当時のこみちはそんなエピソードも知らずに、ただ能登半島をぐるっと巡りたくて、右手側に海を見ながら、くねくねとした道を不安いっぱいで走っていた。
放送を観て思うのは、人生って面白いなぁということ。
放送で登場した70代の女性は、学生時代にこの「のと鉄道」を使っていたらしい。
人口減少もあって、廃線の危機にあったのだろうか、とてもこの鉄道を大切にしていて、さくらが咲く駅として知られるようになった影の功労者でもある。
40代の頃に植樹した桜が花を咲かせ、それを見上げながら「大きくなった」と満足そうに微笑む。
何より彼女たちが大切に守ってくれたことで、今があるとすれば、30年と言う重みが観ているこみちの胸を打つ。
記憶が間違えていなければ、能登半島を走ったのは、その時限りで、正直、さくらのことものと鉄道のことも、景色として見ていたかもしれないが、そこまで深い物語が隠されていたことなど知らないかった。
日本一周にどれだけの価値があるだろうかとこのブログでも思うことを書いてきた。
しかし、その時に何を思ったのかは別として、こうやって人の暮らしや人生模様に触れられると、人がいる限りそれぞれの物語があるのだと分かる。
バイクにしろ、キャンピングカーにしろ、道を進むだけでは見過ごしてしまうかもしれないが、その土地に足を運べば、旅の奥深さに気付かされる。
頭で考えて価値を決めても始まらなくて、実際に行って分かることも少なくない。
そんな駅があって、みんなから愛されていると知り、今度はそれを思って訪れてみたいと思った。
そう簡単に訪れることができない距離ではあるが、行ってみたいと思える場所が一つでも見つかれば、自分だけの旅のしおりが作れそうだ。
中高年になって、若い頃を思い出し、老いた自分を考えたりして、旅する意味を今さらながら感じてしまう。
当時の景色は今もまだ残っているだろうか。
ふと、テレビを観ながら、遠い記憶を思い出していた。